夢を叶えるための生活は困窮を極めて…

 白石は高校を卒業すると札幌デザイナー学院の映像学科に進む。家計が苦しく、住み込みの新聞奨学生をしながら学校に通った。高校時代の仲間にも、

映画の世界に行くから」と言い残し、消息を絶った。

 楽しかった高校時代に別れを告げ、退路を断って前に進む。

 そんな白石の覚悟を親友の長尾さんは鮮明に覚えている。

「私も札幌の大学へ進学。大学生活に慣れたころ、白石に無性に会いたくなって実家のお母さんに連絡を取りました。しかし本人に口止めされているらしく、新聞の専売所の名前を聞き出すのが精いっぱい。そこで日曜日の午前中を狙って直接、専売所を訪ねました」

 ところが行ってみて驚いた。その新聞専売所は風呂なし、共同トイレのボロアパート。部屋をノックしても返事がない。長尾さんが恐る恐るドアを開けると、狭い部屋で布団をかぶって寝ている白石がいた。食事に誘われた長尾さんは、白石の切羽詰まった生活ぶりを知り、驚いた。

「新聞を朝夕配って学校に行く。そんな生活は大変だったと思う。自分の力だけで生きていかなくてはいけない。私には想像もつきませんでした」

 しかもわざわざ訪ねてくれた長尾さんの気持ちがうれしかったのか、

「生活が苦しいはずなのに、トンカツ定食をおごってくれました。その味が忘れられません」

 しかし、映画への道はそう簡単に開けるものではなかった。

 当時の北海道は経済状況が芳しくなく、映像関係の就職先もまったくなかった。

 新聞配達をしながら目指した映画への道。そう簡単に諦めるわけにはいかない。悩んだ末に実家の母に相談する。

「一回、東京に行ってみたら」

「骨は拾ってあげるから」

 そう言って背中を押してくれた。前向きでポジティブな性格の母には、常に勇気をもらっていたと話す白石。映画雑誌『キネマ旬報』に載っていた「映像塾」の広告を見て上京を決心する。 

 19歳の旅立ちだった。