心を揺らした、師・若松孝二監督の言葉
筒井康隆原作の映画『ウィークエンド・シャッフル』などで知られる映画監督の中村幻児が主宰する「映像塾」は月謝3万円。ファミリーレストランで深夜アルバイトをしながら、白石はワークショップに参加した。
「この映像塾に、深作欣二、若松孝二、崔洋一といった第一線で活躍する監督が講師として来ていました。ある日、若松監督が『Vシネマの現場に助監督が1人しかいない。誰か手伝えるやつはいるか』と言うので、僕はすぐに『行きます』と手を挙げました」
一日も早く現場で仕事がしたい。そんな思いから、白石はわらをもつかむ思いで若松組の仕事に飛びついた。
当時の仕事ぶりを『若松プロダクション』の先輩で映画プロデューサーの大日方教史(58)はよく覚えている。
「若松組は若松監督が先頭に立って引っ張っていく現場。だから慣れた助監督でも戸惑うことが多いんです。やめていく者が多い中、わからないながらも頑張っているなという印象を受けました」
がむしゃらに突っ走る白石は、正式に若松プロの一員となった。やがて頭角を現す。
「2、3年たってセカンド助監督になったころから、周りがよく見えるようになった。仕切りがうまいだけでなく、台本を読み込んで把握する力にも秀でていましたね」(大日方さん)
白石自身も助監督の仕事に手応えを感じていた。
「現場で撮影の段取りをする助監督の仕事は肌に合い、フリーで多くの監督とも仕事ができて面白くて仕方がなかった」
白石には師である若松監督に言われた、忘れられない言葉がある。
「権力の側からものを描くな。そして弱い人間の目線に寄り添うことを忘れてはならない」
自身の家も貧しく幸せの多い家庭ではなかったから、スッと腑に落ちた。この言葉を肝に銘じ、白石は助監督として活躍の場を広げていく。
しかしその一方で、同い年で監督として活躍する熊切和嘉や李相日、西川美和たちを見て、はたして自分は監督になれるのか。思い悩むこともあった。
悩みを抱える白石は若松監督に、新宿ゴールデン街の飲みの席で監督に必要な資質について尋ねた。すると、
「おまえ、ぶっ殺したいやつはいるか? それを書いたらすぐ映画は作れる」
と言及され、白石は監督になる自信をますますなくす。
「若松さんはもちろんのこと、助監督についた行定勲さんはじめ、監督として成功している人はどこか壊れている人ばかり。だから他人には理解できない感性で面白い映画を撮る。それに比べて、僕は常識人。監督はムリかな」
30歳を前にして、周りからも評価され、仕事のできる助監督・白石の脳裏に、
「北海道に帰ろうかな」
といった思いが宿る。