前職がしゃべりの仕事で生きた!?
窪田さんが最初に“自分の声”を意識したのは、まだ小学2、3年生のころだ。国語の授業で音読すると、担任教師が「はっきりしている声だね。アナウンサーになるといい」と褒めてくれたことを、よく覚えている。
「読むことが好きだったから、うれしかったですよ。もともと算数よりも国語のほうが好きで、貸本屋に行って江戸川乱歩やシャーロック・ホームズを読んでいたし、中学生になったらSF小説を読みあさってました」
ナレーターという仕事があることを知ったのは中学生のときだ。窪田さんが生まれ育った山梨県でも、当時『ディズニーランド』(日本テレビ系)というアメリカのテレビ番組が放送されており、クレジットのナレーターという文字が目に留まった。
高校は自分で決めて山梨県立甲府工業高校に進んだ。会社員の父親も専業主婦の母親も、口出しをしなかったという。だから独立心が養われたのだろうか。その後の進路もすべて自分で決めたそうだ。
入学後すぐ運命的な出会いがあった。
「部活紹介の司会をした男子の先輩の声がやわらかくて、カッコよくて。なんてきれいなしゃべり方をするんだろうと、その人のしゃべりに魅了されちゃったんですね」
窪田さんは、その先輩が委員長を務める放送委員会に入った。たった1年間の付き合いだったが、ナレーションの仕事につながる大切なことを教わったという。
「やっぱりタイミングです。校内放送は『真珠貝の歌』に乗って、『みなさん、こんにちは』と始まる。先輩は、『窪田、どこで出る? これは、ここだよな』と、すごくやさしく教えてくれて。僕が3年のときには自分で台本を書いてラジオ作品コンクールにも出ました。そういう活動が好きだったんですね」
だが、どんなに好きでも、“声”の仕事につながる伝手など何もない。卒業を控えた窪田さんは冷静に進路を考えて航空会社の整備士の採用試験を受けた。中学生のとき熱心に読んだSF小説の影響で飛行機や宇宙が好きだったのだ。ところが健康診断で血尿が出てしまい断念。2週間入院して調べたが原因不明のまま退院し、教師のすすめで富士通に就職した。
川崎工場に配属され、担当した仕事は無線機の調整。
「技術者です。これで合格ラインだけど、この波形を調整すると、もうちょっと良くなるんじゃないかとか考えて仕事をしました。そうして粘り強く工夫したことは、今の仕事にも生かされていると思うんですよ」
「いいや、会社を辞めちまえ」
就職して3年が過ぎた21歳のころ。
《CMナレーター養成講座開講 受講生募集》
通勤で毎日乗っていた東横線で、こんな中づり広告を見かけた。すると、それまで忘れていた“声”への情熱が一気に蘇ってきた。
「ナレーターという文字がパーッと目に飛び込んできたんです。そうかナレーターか。勉強してみたいなぁと」
窪田さんは夕方4時55分に仕事が終わると、週3回、電車を乗り継いで銀座まで通った。さぞや楽しく学んだのかと思いきや、ひどく落ち込む毎日だったという。
「山梨のなまりがすごくて。アクセントの違いもあるけど、決定的にダメだったのは、母音の無声化ができないんですよ。僕は母音まで発音しちゃうからカクカクした感じに聞こえて、美しくないんです」
しかも受講生は俳優やアナウンサー志望の人ばかり。舞台や芝居などの話にもついていけない。
「みんなが話していることがわからなくてガーンときているのに、先生に怒られるでしょう。もう、先生の前でしゃべるのが嫌になっちゃった。非常につらかったけど、それでもやるしかない。一生懸命勉強して、微妙な音の違いがわかるようになって、やっと直すことができたんですね。今でもアクセントには苦手意識があるから、迷ったらすぐ調べるようにしています」
1年間の講座が終わると、テレビCMのナレーションの依頼が来た。窪田さんは会社を休んで収録に臨んだ。
「この放送が気になったら、××生命にお入りください」
自分ではうまくできたと思ったのに、オンエアされたCMを聞いて愕然とした。
「がっかりしたんですよ。下手くそだなって。でも、ディレクターたちの狙いは、いわゆるプロのしゃべりじゃなくて、素人っぽいしゃべりが欲しかったみたいで」
しばらくするとまた依頼が来た。だが、仕事が休めずに断ると、「じゃあ他の人に回す」とあっさり言われた。
そのとき、窪田さんは大きな決断をする。
「もし、仕事が来たのが1回だけなら、そのままだったかもしれないけど、また来たことで、気持ちが変わったんです。『いいや、会社を辞めちまえ』と。僕ってね、意外と単純な性質で、落ちたら危ないから川の深さを測るんじゃなくて、飛べるかどうかわかんないけど、飛んでしまえっていう、いいかげんなところがあった(笑)。それが幸いしたんでしょうね」
家族には相談しなかったのかと聞くと、そもそも両親には何も伝えていなかったという。辞表を出すと会社から山梨の実家に電話がかかってきたが、父親はこう答えてくれたそうだ。
「息子がやりたいことに口ははさみません」