店はカウンターのみで、客は僕ら三人だけ。日本酒を父に注ぐと、いつも不機嫌そうな口元が緩む。父が僕のおちょこにも日本酒を注いでくれる。一口で僕がそれを飲み干すと、父もくいっと飲み干した。
「よくやってる」
ひと言だけ、父がつぶやく。その言葉にホッとして、僕はその日やけに酔っ払ってしまった。支払いを済ませて外に出ると、父が「ごちそうさまでした」と笑顔を見せてくれた。その後すぐ、僕がタクシーを止めようとしたときだ。父が、「うう……」と唸(うな)り声をあげて、路上に倒れてしまった。
母はなぜか、異様に冷静で、父親のベルトを緩め、ボタンを外し、意識を確認する。僕は慌ててしまって、スマートフォンで救急車を呼ぼうとするが、住所がわからず混乱状態に陥る。結局、救急車は通りすがりの人が手配してくれて、救急病院に運ばれた。
夜の待合室で母親とふたり、診断結果を待つ間、久しぶりにゆっくり話した。
「お父さん、嬉しかったのよ。嬉しくて飲みすぎちゃったのよ。ばかねえ」と母は呆(あき)れるように笑った。
僕が二十歳になり、成人式に向かおうとしたとき、父はわざわざ僕を呼び止め、「お前とこれで酒が飲めるんだな」と言ったことがある。僕はあの日、なんと答えただろう。どうしても思い出すことができない。
結局、四十代半ばまで、父と酒を飲んだことは一度もなかった。大人同士の約束は、ときに月日を要する。果たされず、約束を交わした事実だけが標本のように大事に保管されることすらある。
「普通に大学に入って、普通に就職して、普通に孫の顔を見せてくれ」
それが父の、僕への希望だった。その「普通」は、僕にとってはオリンピックで金メダルを獲(と)るくらいに難しいことだった。父の理想と僕の現実は、今のいままで寄り添うことがなかった。
真っ暗な病院の待合室で、急に父に申し訳なくなって、こみ上げてくるものがあった。僕が堪(こら)えようとして踏ん張ったとき、母が隣で「あなたたち、ばかねえ」と僕よりも先に涙を流してくれた。
燃え殻(もえがら)●1973(昭和48)年、神奈川県横浜市生まれ。2017(平成29)年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、エッセイ集『すべて忘れてしまうから』はDisney+とテレビ東京でドラマ化され、映像化、舞台化が相次ぐ。著書は小説『これはただの夏』、エッセイ集『それでも日々はつづくから』『ブルー ハワイ』『夢に迷ってタクシーを呼んだ』など多数。
『BEFORE DAWN』J-WAVE(81.3FM)
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