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「恒例の9月中旬の葉山ご静養でしたが、秋篠宮ご一家が合流することもなく両陛下は静かに過ごされたようです。

女官長をしていた井上さんが亡くなったばかりで、特に美智子さまにとっては、ご心痛の休暇となったのではないでしょうか……」

 9月16日から19日に、葉山御用邸(神奈川県)で静養された天皇・皇后両陛下についてそう打ち明けるのは宮内庁関係者。

 2014年10月20日に、80歳のお誕生日を迎えた皇后美智子さま。関係者が次々と鬼籍に入る中、“最側近”だった女性の訃報も舞い込んだ。

 9月9日、1990年から2004年まで宮内庁女官長として美智子さまを支えていた井上和子さんが、神奈川県大磯の自宅で87年の生涯を閉じたのだ。

 女官は皇室の方々のお世話をする“奥”と呼ばれる人たちのことで、身分は公務員の特別職となる。井上さんについて、宮内庁担当記者が説明する。

「井上さんは、“維新の三傑”といわれる木戸孝允(桂小五郎)の子孫で、父親は元侯爵で最後の内大臣の木戸幸一です。

1978年に夫をがんで亡くしてからは、東京の聖路加国際病院などでボランティアをしていましたが、1990年に女官長として白羽の矢が立ちました」

 宮内庁担当記者が続ける。

「皇室の方々のお世話をする女官はハードな仕事で宿直勤務もあるので、夫や子どもの世話をする必要がなくなった女性が選ばれることが多いです。井上さんは木戸家の皇室との関わりもあって、選ばれたのだと思います」

 国内外での公務や祭祀のときに、いつも美智子さまの後ろに控えていた眼鏡の女性を覚えている人もいるのではないだろうか。

「美智子さまが皇后となった平成の初期からお仕えしていたということで、美智子さまもずいぶんと頼りにされていたのではないでしょうか。女官長は過密日程で人前にも出る仕事なので、頭のきれる方でなくては務まりません」

 そう話すのは長年、皇室の取材を続けるジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡辺みどりさん。渡辺さんは「厳しさの中に優しさを持っている旧世代の貴婦人という感じの女性でした」と、井上さんを振り返る。

「女官長を務めている時期に、私は仕事でお世話になりました。井上さんから直接、クレームの電話をいただいたのが、やりとりの始まったきっかけだったでしょうか。当時、私が週刊誌で美智子さまの連載をしていたときに“美智子皇后”という言葉を使用したところ、それは亡くなられたときの呼び方の諡で、“皇后美智子さま”が正確な表現だという指摘でした。

その後も宮中の儀式や作法について、私の急な問い合わせに答えていただき、美智子さまの還暦祝いの写真集も送ってもらい“お気遣いの方”でした」(渡辺さん)

 女官長を勇退した2004 年の秋には「瑞宝中綬章」の叙勲を受け、大磯の自宅で静かに暮らしていたという。そんな晩年を過ごしていた井上さんを、美智子さまが“お忍び”で訪問されたことがあったという。近所の住人の話によると――。

「2006 年9月に美智子さまが大磯の隣の平塚市で行われた絵本展(『世界の絵本がやってきたブラティスラヴァ世界絵本原画展』)にいらっしゃったときに、井上さんのご自宅にもお立ち寄りになったことがあり、驚きました。長いご滞在ではありませんでしたが、引退した井上さんを気にかけていらっしゃったんでしょう。井上さんも喜んだのではないでしょうか」

 今回、美智子さまが滞在されていた葉山御用邸の海岸からは、相模湾の向こうに大磯を望むこともできる。美智子さまは井上さんとの日々を思い出されていたのかもしれない─。