「倉本聰に会ってこい」と言われ
1959年に大学を卒業してラジオ局のニッポン放送に入社した。
「ちょうどフジテレビが開局する年で、テレビって面白そうだなと試験を受けたんですが、フジに出資した系列のニッポン放送に回されちゃったんです。でも、それがよかった。もしテレビ局に入っちゃったら、シナリオなんて書けなかったですよ」
昼間はアシスタントディレクターとしてラジオ番組を制作。音だけで情景や場面を想像させるため、効果音を探してあちこち駆け回ったり、寺山修司と一緒にドラマを作ったりした。
夜遅く帰宅すると、午前3時までテレビドラマの脚本を書いた。アルバイト禁止なので、会社には内緒だ。
「ダブルでやっていたときは大変でしたね。本当にノイローゼになるくらい身体も酷使しましたし。でも、書くのが楽しくてたまらなかったんですよ。自分の作品が実際にオンエアされるのはうれしいものです」
倉本さんが日本テレビに企画を持ち込み、'63年に始まったホームドラマ『現代っ子』は視聴率30パーセントを超える大ヒットになった。
ある日、部長に呼ばれて、こう命じられた。
「テレビで倉本聰っていう脚本家が目立ってきた。うちも若手を起用したらどうだ。会ってこい」
倉本さんは外の喫茶店で時間をつぶして帰ると、「たいしたやつじゃありませんでした」と報告した。
まもなく倉本さんは4年間勤めたニッポン放送を辞め、フリーの脚本家になった。
日活や東映の映画、テレビドラマ、アニメなど、ジャンルを問わず書いた。
その一方で、自分の脚本は構成力が弱いと自覚し、研究を重ねた。
「僕のバイブルは『日本シナリオ文学全集』で、擦り切れるくらい読みましたよ。黒沢明、小津安二郎など第一線の先輩たちの映画シナリオを読んで、まず起承転結に分けて、またシナリオに戻してみる。そんな作業をずいぶんやりましたね」