朝起きると、枕元に雪が…

「僕はとにかく物心ついたときから親父が大好きだったんです。寡黙で怒ると怖い親父でしたが、今でも尊敬していますし、多分に影響を受けていますね」

 そう語るとおり小倉さんの半生は父親との思い出に彩られている。

 帝国石油の技術者だった父と看護師だった母との間に小倉さんは昭和22(1947)年に生まれる。6つ上に姉がいた。

 小倉さんが幼少期を過ごしたのは、父の赴任地であった秋田県秋田市。動物園の跡地に建てられた社宅の中の元入場券売り場がある事務棟が一家の住まいだった。

7歳のとき。故郷・秋田でスキーをはいて
7歳のとき。故郷・秋田でスキーをはいて
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「建てつけが悪くて、切符売り場の手を出す穴から風や雪が吹き込んできて、朝起きると枕元に雪が積もっていました(笑)。土間が広かったので、そこに紙芝居屋さんが来て、近所の子どもたちと一緒に見た記憶があります。敷地内には戦争中に生き残った猿やヤギ、鶏などがいて、動物が大好きになりましたね」

 社宅のそばにあった試験室で、父は室長としてガスや石油の研究や実験をしていた。小倉さんはその様子を見に行くのが楽しみだったと言う。

 父は小学生のときは勉強よりも身体を鍛えて友達をつくりなさいと話していた。小倉少年は野山を駆け回って育つ。

 そんな元気な小倉さんだったが、悩みがあった。吃音で人と会話をするのもままならなかったこと。小学校低学年の学芸会で与えられた役は木の役。セリフはなかった。

 小学校3、4年は父の転勤で東京都新宿区の小学校に通った。転校生についたあだ名は“どもきん”。吃音で目が飛び出ていたからだった。おまけに秋田弁で言葉が通じないとばかにされた。

「でも、運動会があると誰にもいじめられなくなりました。ケタ違いに足が速くて運動が何でも得意だったので、みんな一目置いてくれたんですね」

 給食のときにクラス単位で発表をする場があり、『マッチ売りの少女』を上演することになった。小倉さんはマッチを買う男の役。今度はひと言だがセリフがついた。

「そのマッチはいくらですか?」

 繰り返し練習してちゃんと言えることを確認した。ところが本番当日、小倉さんの出番になったら言葉が出ない。マッチ売りの少女が「1円です」と先に言い、セリフを飛ばされてしまった。

 毎年、七夕の短冊には「治りますように」と書いていた。あるとき、

「父ちゃん、七夕はうそだ! 願い事なんて何も叶わない」

 と訴えると、父は、

「智昭、夢は持つな。夢は夢で終わる。そのかわり目標を持ちなさい。手が届く目標を立てて、それができたら、また次の目標を立てるんだよ」

 と語った。

「その教えが僕にはずっとあって、夢より目標を持とうというのがいまだにあります」

 また父に常に諭されたのは、人を差別しないこと。当時、社宅のそばに貧しい在日韓国人の人たちが住む長屋があった。そこに仲よしの友達が住んでいた小倉さんは、たびたび遊びに行っていたのだが、あるとき母が社宅の人たちに、そのことを咎められる。それを聞いた父は烈火のごとく怒り、「その子の家にどんどん遊びに行きなさい。家にも連れておいで」と話したという。

小倉さんを小倉さんたらしめているのは、大好きだった父の教えの賜物 撮影/坂本利幸
小倉さんを小倉さんたらしめているのは、大好きだった父の教えの賜物 撮影/坂本利幸

「僕はいつも人のいいところを見るように心がけたり、仕事をするときも、先輩だろうと後輩だろうと常に同じように見て分け隔てなくお付き合いしようと思っているんです。やっぱり、それも父親の教えなんでしょうね。

 ただ人にだまされたこともありますし、痛い目にあったこともあります。でもそれは全然、後悔しないんですね。自分がその人を信頼して好きでやったことだからいいじゃないかって」

 前述の住職・中村さんは小倉さんの人柄をこう話す。

「小倉さんは頑ななまでに実直で言葉は悪いですけど、だまされても気がつかないような人ですよ。いったん自分が面倒を見ると決めたら、とことん面倒を見ますからね。それは小倉さん自身の持っている仏性的本能、寛容さがそうさせるのかもしれませんね」