宇津木妙子さんとの初めての出会い
宇津木麗華監督の帰化前の中国名は任彦麗(ニンエンリ)。1963年6月、父・任位凱、母・岳勝花の間の3番目の末っ子として誕生した。幼少期は文化大革命の混乱期だったが、きまじめな軍人の父から厳しい教育を受けた。「ウチのお父さんは“悪いことは絶対にしてはいけない”“人に迷惑をかけてはいけない”というのを口癖にしていたので、私自身もまっすぐな性格に育ちました」と彼女はしみじみ言う。
スポーツ好きの一面を持っていた父の影響もあり、麗華監督も小学校から中学にかけてのころは陸上競技に没頭していた。
「やり投げの選手だったんですが、指導してくれた先生の旦那さんがサッカーのコーチだったんで、女子サッカーに誘われたこともあります」と本人も笑う。けれども、彼女が興味を持ったのはサッカーではなく、ソフトボールという未知なる競技。14歳のとき北京のチームの指導者がやり投げの大会に出場していた麗華監督を見初め、「やってみないか」と声をかけたのが始まりだ。その誘いに応じ、練習に行ってみると、打撃もピッチングもとにかく面白い。少女は一瞬にしてソフトボールの魅力にはまった。
ソフトボールに転向して1年後、麗華監督は運命的な出会いを果たす。北京に遠征してきた日本代表の中に、のちに家族同然の間柄となる宇津木妙子さん(現・ビックカメラ高崎シニアアドバイザー)がいたのである。
「キャプテンでサードだった妙子さんは小柄なのによく打つ選手で、すごい人だと驚きました。そのときはただ横から見て憧れてただけだったんですが、中国ジュニア代表のキャプテンとして日本に遠征した18歳のとき、先輩から預かったお土産を妙子さんに渡して、初めて話ができました。当時は日本語が全然わからなかったんで、筆談で何とかコミュニケーションをとりましたね。中国は野球やソフトが日本ほど盛んではなく、優れた指導者がいなかったんで、妙子さんみたいな人に教えてもらえるのは本当にありがたかったです」と麗華監督は若かりし日に思いをはせる。
現役を引退して指導者に転身したばかりの妙子さんのほうも、麗華監督の頭抜けたソフトボールセンスを瞬時に感じ取ったようだ。
「15歳の麗華が人民服を着てこっちを見ていたのは記憶があります。初めて話した日本遠征のころから、自分で考えて判断できる頭のいい選手だと思っていました。実際、カナダのエドモントンで開かれた’81年世界ユースソフトボール選手権大会では打率6割という驚異的な数字を叩き出し、リーディングヒッターになってますからね。その後、シニアに上がってきて、日中両国の試合があるたびにコミュニケーションをとりましたけど、彼女は本当に一生懸命、日本語を覚えようとしていた。手紙も送ってくれました。私のほうもロクに話ができないのに国際電話をかけて、月20万円の電話代を請求されたこともあったかな。父にはものすごく怒られましたけどね(苦笑)」と妙子さんも若かりし日の微笑ましいエピソードを披露する。
2人の交流は続き、25歳になった麗華監督は「妙子さんの下でやりたい」と日本行きを決断する。妙子さんの力強い援護射撃で、彼女が総監督を務めていたビックカメラの前身・日立高崎に入ることになったのだが、最初は問題が山積みだった。