松本徳彦「私の最初の皇室取材は、美智子さまのご婚約内定発表(写真①)のときの正田邸前でした。
編集長に言われ五反田に飛びましたが、すでに新聞社のカメラマンの脚立がズラリと並び、私は右端でした。
撮影に夢中でしたが、初めて拝見した美智子さまはおきれいだという印象でした。
父親の英三郎さんは恰幅がよく財界の重鎮という感じで、母親の富美子さんも上品な婦人だなという印象を持ちました」
山下芳彦「私の皇室の撮影のいちばん古いものは、常陸宮妃華子さまの父方の実家・青森での取材だと思います(昭和39年8月)。かなり涼しかったことが記憶に残っています。
のちに私は、『馬術情報』という雑誌の対談企画の撮影で常陸宮邸を訪問したのですが、華子さまに、青森での提灯行列のことを話したら“そうですか”と喜んでいただきました」
今井隆一「私は美智子さまが秋篠宮(当時・礼宮)さまを出産して退院されるときが初めての取材でした(写真②)。
東宮御所の玄関前に待機していましたが当時、携帯電話も無線もなく、いつになったら帰ってこられるのか現場はピリピリしていました。
ようやくお帰りになると、秋篠宮さまを抱いた美智子さまが車の窓を開けてくれて、何とか撮影できました。自分のために開けてくれたのでは、と思いましたね(笑)
小島愛一郎「私は大阪万博(昭和45年)のころでしたね。そのころは黒田清子さん(当時・紀宮さま)を出産した後で、40歳前の落ち着いた母性的な美しさがあるように思いました」
松本「私の時代は週刊誌の黎明期で、皇室取材も手探り状態で苦労しました。
お出ましも、公式の大きな行事は宮内庁に問い合わせると教えてくれましたが、百貨店での展覧会のような公務は、発表されませんでした。
だから主催者に直接問い合わせをするなど、アンテナを常に張っておかなければならない状態でしたね」
山下「私が週刊女性に在籍していたころは、公式行事はすべて宮内庁から日本雑誌協会に通知がありました。
そこから私たち出版社にファックスが送られてくるので、その中から出欠を選ぶことはできました」
小島「今はメールで、その案内も来るそうですね。
でも、そんな公式の型どおりの取材だけだと、週刊誌にとっては物足りないですよね」
松本「だから、私たちのころは宮内庁に直接、取材を申し入れていました。
両陛下と皇太子(当時・浩宮)さまが軽井沢に静養に行かれたときのことです。