「もし、もう1度、人生があれば、スケートの道には行かないと思います」
12日に行われた引退会見で、「もし生まれ変わるとしたら?」という記者からの質問に対し、浅田はきっぱりとこう答えた。つらいときでも常に人前では“真央スマイル”を欠かさなかった彼女だが、21年間にわたる競技生活のなかで決してリンクでは見せなかった悲しみや葛藤を知る人は少ない。
'11年12月9日早朝、母親の匡子さんが浅田に看取られることなく肝硬変でこの世を去った。スケート場で見せる母子の親密さは、姉の舞も交え『3人4脚』と称されたほど。もっとも身近で彼女のスケートを支え応援してきた母を失ったのだ。
「20年ほど前から匡子さんは肝臓を患っていたのですが、'11年には移植手術を受けなくてはならないほど悪化していたのです。
医師はHLA(ヒト白血球型抗原)の相性がいい舞ちゃんからの移植をすすめ、彼女も“ママが長生きできるなら”と了承したんです。
でも、手術直前に“大事な娘の身体にメスはいれられない”と強く拒否し、危険度が上がることを承知で夫である敏治さんから肝臓を移植したんです」(浅田家に近しい人)
だが、術後の経過は思わしくなく、その年の暮れに帰らぬ人となってしまう。グランプリ・ファイナルのためにカナダにいた浅田は母の急変を聞き急いで帰国するも、その最期には間に合わなかった。
「真央ちゃんは母親の死に目に会えなかったことが本当にショックだったみたいで。“スケートをせずに看病していれば”と悩んだそうです。でも、おばあちゃんが葬儀の日に言った“全日本選手権に出るんだろう”のひと言で吹っ切れ、2週間後の大会に出場するのです」(前出・浅田家に近しい人)
どんなに悲しいときもリンクに立ち続けた浅田。
匡子さんは亡くなる半年前に約60分に及ぶ『週刊女性』のインタビューに応じて、娘の気持ちをこう代弁していた。
母・匡子さんがいちばん楽しそうに話したこと
「真央は心も身体も金属疲労のような状態なの。12歳からケガもあったりしたけど、ずーっと試合に出続けていたのが、真央の強みだと思うの。
でも、ストイックにやってきて、それが、いっぱいいっぱいになっちゃう時期にきているのかも。まだソチまで時間があるので、どこかで思い切ってリフレッシュしないと、うまくいかなくなっちゃうわ」