その男は、犯してもいない罪をきせられ、ただひとり自分を支えてくれる若く清らかな妻と、刑務所のベッドに腰かけている。妻の本当の強さと優しさに気づき、男は静かに愛の歌を歌いあげるのだ。観客席から、熱い拍手が渦のように沸き上がった。

 6月中旬まで上演されていたミュージカル『パレード』は、20世紀初頭のアメリカで実際に起きた冤罪(えんざい)が題材となっている。犠牲となり消えてゆく主人公レオ・フランクを演じたのが、石丸幹二である。

『パレード』初日、レオ・フランクに見えていた石丸は、2週間後には舞台の上でレオ・フランクとして暮らしていた。レオ・フランクその人が生きて動いていた。これが石丸幹二の、役者としての底力である。

 ミュージカルを知る人にとって、石丸は大スターだ。だがそうではない人たちにとってはドラマ『半沢直樹』の敵役、浅野支店長としてブレイクした俳優だろう。

劇団四季にいたときに浅利慶太さんに言われたんです。俳優たるもの、役をあなたが生きるんだ。あなたの肉体を提供しなさい。すると、その人の息遣いになるし、その人の身構え方にもなる。観客が共感すれば、それは生きていたということになると」

 その後、数々のドラマや舞台、コンサート、司会で大活躍の石丸が、今回、チャレンジした社会派のミュージカルには、観劇した多くの人から「深く考えさせられた」と感想が届いた。石丸はレオ・フランクの苦悩を役として生きることで、また、自分の中の山をひとつ越えたのだ。

歌で演じることに憧れた

 石丸は1965年、愛媛県新居浜市に生まれ、4歳で千葉県市原市へと引っ越す。

「両親は音楽家ではなかったんですが、家ではいろいろなレコードを聴ける環境があったんです。ポール・モーリアやシンフォニー、ジャズ、美空ひばりさんも鳴ってたな」

 ひとりっ子で兄弟はいなかったから、小学校から帰るとオヤツを食べながら、毎日違うレコードを聴く時間が楽しかった。小澤征爾に感極まり、カラヤンを聴いて魂を抜かれたという。なんとも感性の豊かな小学生だった。

小学校6年生のとき『別れの歌』を弾いているところ。子どものころからいろんなレコードを聴ける環境が。さまざまな楽器にも触れることができた
小学校6年生のとき『別れの歌』を弾いているところ。子どものころからいろんなレコードを聴ける環境が。さまざまな楽器にも触れることができた

「エレクトーンやピアノは親に言われて習いました。5年生になると学校で鼓笛隊があり、トロンボーンの担当に。中学校で吹奏楽部に入り、サックスを始めました」

 スネアドラム、オーボエ、コントラバスなど手にする楽器は増えていった。

 好きな音楽に浸りたくて、(現)千葉県立幕張総合高校普通科音楽コースに入学、オーケストラ部でチェロに打ち込む。卒業後はクラシックの音楽家を目指し東京音楽大学へ進学、サックスを専攻する。

 バブル真っ最中の東京は浮かれていた。渋谷ザ・プライムの最上階では週末ごとにパーティーが開かれ、池袋からサックスを抱えてバスで出かけて、仲間と演奏した。そんなある日、テレビのNHK『芸術劇場』から聴こえてきた歌声に衝撃を受ける。

「アメリカのオペラ歌手ジェシー・ノーマンがシューベルトの『魔王』の3役を歌っていた。いや、演じ分けていたんです。こんなふうに歌うことが、クラッシックの世界にあるんだと。これをやってみたい! と思いました」

 劇的なものを表現していくスタートだったかもしれない。学外で入っていたコーラスサークルの藝大の先生に、「君は、歌を磨こうとは思わないの?」と、のせられて、転向を決める。翌年、東京藝術大学音楽学部声楽科に合格、テノール歌手へと歩みだす。

「藝大ではアカデミックなクラシックの勉強なので、歌詞がイタリア語やドイツ語なのがもどかしくて、僕は“日本語で伝えたい、歌いたい”と、しきりに言っていた」

 藝大を卒業した先輩たちが、「だったらミュージカルに行けよ」と。「なんですか、それ?」「劇団四季というところがオーディションをするから願書を出せ」と。“ミュージカル”の舞台を見たことはなかったが、調べると、お客さんを前にして日本語で歌い、劇的なものを共有する。

「これこそ本当に望んでいた世界じゃないか」