大手都市銀行か? 家業か?
懸命に稽古に励めば雑用も率先してやる。そんな木下青年に目をとめた人がいた。明大の西功就職課課長である。
「“キミは成績もいいし、剣道部でもよくやっている。都市銀行に就職してみてはどうか?”と、住友銀行と三和銀行を紹介してくれたんです」
さっそく面接を受けたが、住友銀行はお堅くて、どうも肌に合いそうもない。それで三和銀行も受験したところ、入行が内定した。
ところが、その入社前健康診断でのことだった。
「当時は東大から始まって、京大、早稲田と、健康診断を受けるにも序列があった。どこの企業でも同じだったんでしょうけど、最初から序列なんて、つけるべきではないんじゃないかと思いました」
(人にはさまざまな才能がある。学歴はそんな才能のひとつの表れにすぎないのに……)
木下さんは、そんなふうに感じたという。
指に刺さった小さなトゲのように、ちくちくと心を刺激する疑問……。そんな10月、郷里・岡山から思いがけない知らせが届いた。父親の2代目社長・木下光三さんが、腎臓結石で入院したとの連絡であった。
実は内定を受ける前の6月、父・光三さんから都市銀行入行を考え直すよう、引きとめられたことがあった。
「今はともかく、当時の大手企業は学歴一辺倒。学閥もあれば、出世ラインというものもある。そんな状態で入社しても部長どまりだろうと言うんです。私は入る以上、トップを目指したいと思っていた」
とはいえ入行すれば、部長にはなれるに違いない。名だたる大銀行の部長である。なんの不足があろうか。さらにここで入行を辞退すれば、母校の就職課にも迷惑をかけるに違いない。心は千々に揺れ動いた。だが家業に入れば、努力次第では木下サーカスを世界ナンバーワンのサーカスに、すなわちトップを目指すこともできよう。
「人生は長いようでいて短いかもしれない。親不孝しないで家業に戻ろうと。それで三和銀行の内定を辞退。人事部に手紙を書いたんです」
昭和49(1974)年、木下さんは木下サーカスに入社。宝塚では『ベルサイユのばら』が初演され、元祖夏フェスともいわれる『吉田拓郎・かぐや姫コンサート・イン・つま恋』が初開催されるその前年、エンターテイメントの世界が大きく動き出す直前の時代のことだった。