空中ブランコのスターフライヤーに

空中ブランコのフライヤー時代の木下さん。「療養中よりも何よりも、この時がいちばん心配だった」と妻・恵子さん
空中ブランコのフライヤー時代の木下さん。「療養中よりも何よりも、この時がいちばん心配だった」と妻・恵子さん
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 木下さんが入社した当時のサーカスといえば、団員は丁稚奉公でもするようにして弟子入り、芸を身につけていくような状態。そんな中に飛び込んでいった、当時はまれなこの大卒社員は次々と思い切った改革に取り組んでいく。

「私が入ったころは365日休みがなかったんです。だから私は父に言いましたよ。“休みのない会社なんて、会社じゃない”と。それでようやっと週休になったんです」

 同時に新入り団員の1人として、下積み仕事も志願した。

「剣道部に入った時のようにいちばん下の仕事からしたいと言ったんです。体育会の剣道部で育っているから、社長の息子とか言われるのが嫌いなんです。ひとりの人間としてのスタートラインを求めたかった」

“サーカス団のいちばん下”として担当したのはゾウの世話係。平たく言えばフンの始末をする係である。

「これは激しいですよ。(ゾウはフンを)山のようにするからね。朝4時に起きて、約1時間半かけてゾウ3頭分のフンをスコップで外に出す。かなり臭いし、そのにおいが身体につくし(笑)

 そんな24歳の5月、団員としての方向を決めた。

空中ブランコをやってみたいな、と思ったんです。剣道がいいなと思ったのと同じように、カッコいいなあと思ったんでしょうね」

 どうもさわやかで、それでいてひたむきな努力が必要なものに惹かれるたちらしい。

 さっそく練習場を作ってもらい、連日猛練習に打ち込んだ。

「揺りの練習からするんですが、自分の体重を支えながら揺れるのって、大変なことですよ。手の皮がむけて、血だらけになりますから」

 とはいえ木下さんはわずか1か月という驚異的なスピードで技術をマスター。空中ブランコでも花形の、空中を華麗に舞うフライヤーとして、翌月には大観衆の前での初舞台を成功させた。

「デビューの時の感想? 恥ずかしかったですね。でも日曜なんかでお客さんが多いと気分がよかったですよ(笑)」

 社長である父からは頼りにされ、サーカスの花形として喝采を浴びる毎日。さらには入社前、大学生時代に1年休学、ヨーロッパのサーカス視察に励んだことがあった。

(自分は世界最先端のサーカスを知っている。ほかならぬ自分自身がこの腕で、木下サーカスを世界ナンバーワンのサーカスにしてみせる!)

昭和51年、観客であふれかえる後楽園木下大サーカス
昭和51年、観客であふれかえる後楽園木下大サーカス

 若さゆえの気概と驕(おご)り。

 ところが、そんな入社3年目、26歳の時のことだった。

「ブランコから落ちてしまった。足からネットに落ちたんだけど、首の第7頸椎(けいつい)を損傷してしまったんです」

 当時のネットは弾力もなく、漁網とたいして変わらず、硬い。もしも首から落下していたら、その場で即死してもおかしくない状況だった。