「後ろの席の女の子」に圧倒されて
豊島区立駒込中学校に入学したふさこに、運命の出会いが待っていた。
「同じクラス、しかも1つ後ろの席に座る女の子が休み時間になると漫画を描いていたんです。よく見ると私の描く鉛筆書きの漫画ではなく、ペン入れ、スクリーントーンまでされた本格的な漫画原稿。しかも、絵がとても上手で圧倒されました。その女の子が後に『週刊マーガレット』(集英社)からデビューする柿崎普美さんでした」
意気投合した2人は、休み時間になると漫画の主人公の似顔絵を描きあって、少女漫画雑誌『なかよし』(講談社)の似顔絵コーナーに投稿。そろって入選するようになる。
「姉は、柿崎さんから漫画の新しい知識を仕入れてくると、私に自慢げに教えてくれました。もし柿崎さんがいなかったら、姉も私も漫画家になることはなかったでしょうね」
と妹の知子さんは言う。
ふさこが柿崎さんに刺激を受け、初めてストーリー漫画を描いたのは、中学3年生のころだった。
「『なかよし』に投稿して、努力賞を受賞。漫画家になりたいという思いは、日に日に強くなっていきました」
そろって豊島岡女子学園高校に進学すると、漫画家志望の子たちが“持ち込み“していることを知り、ふさこたちも生まれて初めて『週刊マーガレット』編集部を訪ねる。
「2人の作品に目を通した編集さんに“また持って来なさい”と言われたときはうれしかったし、とても刺激になりました」
その後、柿崎さんは『週刊マーガレット』の編集部へ持ち込みを続け、デビューを果たすことになるが、ふさこにはふさこの考えがあった。
「当時、私が憧れていた雑誌は、同じ集英社でも一条ゆかり、もりたじゅん、山岸涼子といった錚々(そうそう)たる漫画家を輩出していた『りぼん』。読者を招待して漫画家の先生たちにお話を聞く『りぼん』の漫画教室に私も勇んで参加しました」
しかし憧れの『りぼん』の世界は眩しすぎて、敷居も高く、なかなか漫画を送る勇気が持てずにいた。
そんな彼女のために門戸を開いてくれたのが『別冊マーガレット』だった。
「当時、投稿した漫画を読んで唯一、添削してくれたのが『別マ』。ここで腕試しをしてから『りぼん』に投稿しようと思っていたのですが、それからずっと『別マ』にお世話になることになりました(笑)」
投稿した作品を添削するシステムを最初に取り入れた『別マまんがスクール』には、のちにふさことともに少女漫画界を牽引していくことになる槇村さとるをはじめ、多くの少女漫画家たちが腕を競っていた。同い年で自身も『別マ』でデビューすることになる笹生那実さんは、
「ふさこさんは年齢に似合わない、レベルの高い新人さん。先鋭的で常に読者の半歩先、一歩先を歩いていました。それこそ『半分、青い。』の秋風先生のような鋭い方かと思っていましたが、お会いしたら、ふんわりと穏やかで優しい人。今も昔も雰囲気は、まったく変わりませんね」
『別マまんがスクール』に身を投じたふさこは、いち早く頭角を現す。高校2年生のとき『エンゼルは雨の中に』が佳作に、さらに『メガネちゃんのひとりごと』が金賞に選ばれ、念願の漫画家デビューを果たす。
当時の心境を、
「雲の上を歩いている気分でした」
と話すふさこ。
しかしその一方で、
「編集さんに“地味だ”“個性がない”と指摘され、目を大きくしたり小さくしたり。個性作りには苦労しました」
夢が叶(かな)ってデビューはしたものの、読み切りばかりで、ふさこはなかなか連載を持つことができなかった。
「とてもプロの漫画家といえる状態ではなかった。京都の大学に新しく漫画学科ができたのでそこに行かないかと、友達に誘われました。でも両親に“京都のひとり暮らしは絶対ダメ”と反対され、東京の美大に進学しました」
進学先は武蔵野美術大学造形学部。
ふさこは日本画を学びながら、漫画を描き続けた。
「大学には6年通いましたが、クロッキーで人物、生物、動物、風景とひと通り描き、今になって思うとものすごく勉強になりました」
デッサンがしっかりしていると言われるふさこの画力は、美大時代に培われたもの。また、『ガラスの仮面』で知られる美内すずえ先生から声がかかり、アシスタントを経験したのもこのころ。
「資料もないのに、想像で“洪水の絵を描いて”と言われたり、美内先生にはとても鍛えられました」
プロの厳しさを目の当たりにしても、くじけるばかりか夢はますます膨らむばかり。そんなふさこに、初めて連載のチャンスが訪れる。