はとバスで磨いたキレッキレの話術
家に帰れば普通の主婦でもある荒木さん。婚活コーディネーター、タレントとして活躍するまで、どんな道のりを歩んできたのだろうか。
荒木さんが生まれ育ったのは長崎県佐世保市。父は塗料関係の会社に勤め、母は祖母が経営する小さな旅館を手伝っていた。荒木さんは一卵性双生児の長女。5歳下の弟がいた。
「私は口が達者で前に前に出るタイプですが、双子の妹は私より若干控えめです(笑)。父も母も子煩悩でしたが、いたって普通で、私はどこから出てきたんだと言われるくらい異端児でした(笑)」
中学では生徒会の役員を務め、高校では体育祭の応援団や野球部のマネージャーをした。成績もよく、教師になりたかったが、大学に進学したいとは言い出せなかった。
「双子だし、うちにお金がないのはわかっていたから……。妹も大学はあきらめると言って、2人とも就職したんです。もう浪花節ですよ。せめて弟だけでもと思って仕送りもしたんですが、弟も大学には行かずに就職しました」
就いた仕事は、はとバスのバスガイド。高校に求人が来ていた中から選んだ。サービス業がしたかったのと東京への憧れがあった。
この18歳での決断が、荒木さんの人生の大きな分岐点になる─。
上京すると、いきなり壁にぶち当たった。東京23区の分厚いガイドブックを渡され、ひたすら暗記する毎日。同期生は北海道から沖縄まで日本全国に及び、荒木さんは方言やイントネーションの違いまで厳しく直された。
「まさかそんなに勉強漬けだと思ってなかったし、親が恋しくてホームシックになりました。3か月くらいは泣いてばかりでしたね」
まだ携帯電話などない時代だ。200人が住む寮には各階に公衆電話があり、夜や休日にはズラリと行列ができた。使用ずみテレホンカードを取っておいたら、厚みが10センチを超えた。
2年目に入り仕事にも慣れるとガ然、楽しくなった。荒木さんのガイドに乗客が大爆笑してくれ、「またあなたのバスに乗るわ」と言ってくれるリピーターが増えるにつれ、話すことに快感を覚えるようになった。
前出の海原師匠は、このバスガイドの仕事で話術が磨かれたのだろうとみる。
「毎日、お客さんは違うわけで、そのときのお客さんによって話の内容を変えていかんと、お客さんは絶対退屈しますから。それが今の仕事に生きていると僕は思います」