「私は東大を出て、電電公社(現在のNTT)に入社しました。3年間ニューヨークに赴任して、現地で家族と暮らしました。それで、さつきは“帰国子女”なんてもてはやされたんです」
'88年に八木亜希子、河野景子とともにフジテレビに入社。
“花の3人娘”と呼ばれ、バラエティー番組に出ずっぱり。いわゆる“女子アナブーム”で人気となったが、有賀さんにとっては大きな負担となっていたと話す。
「アナウンサーという仕事は、本当に過酷です。夜中の11時に番組をやって、それも生中継だから当然、失敗は許されない。ものすごいプレッシャーで、さつきの神経はすり減らされたんです」
アナウンサーという仕事の過酷さ
スポーツニュースを担当しながら、『オレたちひょうきん族』や『とんねるずのみなさんのおかげです』といったバラエティー番組でも活躍。後に“元祖・アイドルアナ”とも呼ばれた。'92年にフジテレビを退社して、タレントに転身。華やかな世界で輝いたが、洋さんはそれが命を削ることにつながったと考える。
「私生活でも、電車にすら乗れない。そのへんを歩けば人に騒がれる。さつきが亡くなった後、確定申告を私がやりましたが、領収書はものすごい数でしたよ。でも、さつきは自分の人生を貫き通しました。それはひとりの人間として立派だったなと思います」
有賀さんは、'02年にフジテレビ時代の上司だった13歳上の和田圭氏と結婚。女児を授かったが、'06年に離婚。有賀さんは会見で和田氏との結婚は間違いだったとも語った。
「'15年に、日本テレビ系のバラエティー番組『解決!ナイナイアンサー』に出演した際、“話し合って別れようと決めた2日後に妊娠が判明し、刑務所に入る覚悟で結婚した”と発言。寝室を別にして夫婦生活を拒否していたことも明かしました。あからさまな物言いにはバッシングもありましたね」(芸能レポーター)
有賀さんが和田氏と離婚したとき、娘は3歳。洋さんは、なんとか離婚を思いとどまらせようとした。