当時、陛下の同級生は就職して多忙になってしまい、大学院生だった私には時間がありましたから。
携帯電話もメールもない時代で、陛下から正田邸に直接電話するとご迷惑ではないかとのお考えからか、まず私が陛下から伝言をうかがい、正田邸にかけ、美智子さまにお伝えしていました。美智子さまから陛下への手紙を預かったこともあります。
正雄 父が朝日新聞の記者だったのが結果的によかったみたいだね。
和雄 父は当時、朝日の運動部の記者でしたが、おふたりのことは何も言わず、母も黙って陛下からの電話を私に取り次いでいました。
あとでわかったことですが、ほかの新聞社は私が陛下と美智子さまの間で何か動いていると気づいていましたが、私をつつくと、父に筒抜けになる可能性があり、取材しにくかったようです。
陛下がそこまで考えて、私を指名されたのならすごいことです(笑)。
当時は鮮魚店の店員になりすまして正田邸に食い込もうとした記者がいたり、美智子さまの母・富美子さんをヘリで追跡したりと取材攻勢はすさまじいものが……。
和雄 最後は当時の御所の陛下の電話から直接、正田家に連絡をして美智子さまを呼び出してもらい、陛下に代わりました。
後年、聞いたところによると、陛下は美智子さまに「YESと言ってください」「公的なことが最優先であり、私事はそれに次ぐもの」と強くおっしゃったそうです。
そんな陛下の率直で、まっすぐなお人柄に美智子さまは結婚を決められたのではないでしょうか。
陛下との婚約内定記者会見での美智子さまの陛下に対する「とてもご誠実でご立派で……」という言葉は当時、流行語となった。
和雄 婚約決定前、陛下が美智子さまをテニスにお誘いしていた当時、笹の葉だと思いますが、それに包まれたちまきを振る舞われたことがありました。
現在でも毎年5月、こどもの日の前後に東京・ローンテニスクラブに両陛下がいらっしゃるときは、ちまきをお持ちになられます。そのときの思い出を大切にされているのでしょう。
正雄 私も陛下の美智子さまへの愛情は、格別なものだと思います。
私がドイツに滞在していたころ、当時の東宮御所に世界中の白樺の木を植えたいから、ドイツの白樺の種も送ってくれと陛下から頼まれたことがあります。
白樺は美智子さまのお印です。それだけ美智子さまのことを思われていたのでしょう。その白樺はまだ残っているのではないでしょうか。
和雄 マスコミの人からよく両陛下のケンカされるところを見たことがないかと聞かれますが、残念ながら1度もありません。
公務やテニスをしている姿からも、お互いを思いやる気持ちが伝わってくるので、あんな素晴らしいご夫婦はほかにはいないと思います。
正雄 退位後はおふたりで自由な生活を送っていただきたいですね。数年前に中・高等科時代の同窓会が開かれ、陛下もいらっしゃることになりました。
最初はご滞在時間が2時間の予定でしたが、次は1時間、30分、最後は10分間だけになり、隣の席だった私とはひと言交わされただけでした。美智子さまも、そんな束縛された生活を送られていたと思うので、5月からは自由な生活を送っていただきたいです。
和雄 退位された後は、軽井沢に小さい家を持って、おふたりで近くのテニスコートで1日10分でもいいからプレーしていただきたいですね。
皇居にうかがったとき、部屋の窓の向こう側の庭に、陛下に言われて育てている草花があると美智子さまにご紹介いただきました。
私に、“ポケちゃん、見て行ってね”という言い方がとてもうれしそうで、両陛下の夫婦愛を垣間見た感じがしました。
(注1)こいずみ・しんぞう。1888(明治21)年生まれ。経済学者。慶大塾長などを務めた後、東宮御学問参与に。陛下の教育にあたり、美智子さまとの結婚にも尽力した
(注2)エリザベス・バイニング。1902(明治35)年アメリカ生まれ。司書、作家。陛下の家庭教師として選ばれ来日して、学習院などでも教えた
織田正雄(おだ・まさお)◎昭和9(1934)年1月生まれ。学習院中等科から高等科まで天皇陛下と同級。慶大卒業後の東京銀行(当時)時代にドイツ留学。ハンブルク支店などに勤務。日独フォーラム会長。日独協会理事。著書に『ドイツ・ビジネスガイド』(有斐閣)
織田和雄(おだ・かずお)◎昭和10(1935)年11月生まれ。中等科2年から大学まで学習院で学ぶ。天皇陛下より2歳後輩。卒業後は、慶應大学院や米英の学校で学び、三菱商事でエネルギー分野を主に担当。近著に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館)