人はさまざまなものに導かれて何かに出会う。わたしが奈良少年刑務所に出会ったのは、あきらかにその「美」に導かれてだった。それが明治の名煉瓦建築でなければ見にいかなかっただろうし、刑務所からスカウトされて、作家なのに、受刑少年たちに絵本と詩の教室を持つことにもならなかっただろう。

 美が偶然にわたしを導いたと思っていた。しかし、建物の歴史を知るほどに、偶然ではなく、必然だったと思えるようになった。「美」は単に、その表面的な美しさだけではなく、設計者の「思想」をも表現していたからだ。

「受刑者の人権」

 奈良少年刑務所は、「奈良監獄」として建てられた明治五大監獄のひとつだ。その歴史を知るためには、明治の日本にさかのぼらなくてはならない。

 幕末、日本は西欧諸国の圧力に負けて、不平等条約を結んでいた。問題は「関税自主権」と「領事裁判権」。明治政府は、これを改善しようとやっきになっていた。しかし、「領事裁判権」に関しては、こんな理由で断られてしまった。

「あなたの国には、きちんとした法律もなければ、まともな監獄もない。これでは、わたしたちの国の国民が受刑者になったときに、その人権が守られない」

 西欧諸国は、そのころすでに「受刑者の人権」まで考えていた。確かに、日本では江戸時代の奉行所で使っていた牢屋をそのまま使っているところもあった。明治政府は発憤し、法律を整え、文句のつけようのない立派な監獄を造ろうとした。若き日本の意地の見せどころだった。

『写真集 美しい刑務所 明治の名煉瓦建築奈良少年刑務所』(西日本出版社)より
『写真集 美しい刑務所 明治の名煉瓦建築奈良少年刑務所』(西日本出版社)より

 明治34年(1901)、司法省は金沢、千葉、奈良、長崎、鹿児島への監獄建設を決定する。のちに「明治五大監獄」と呼ばれるものだ。

 設計者として白羽の矢を立てたのは、34歳の司法省の建築技官・山下啓次郎。東京帝国大学で辰野金吾に学んだエリート技官だった。辰野は東京駅の赤煉瓦の設計者だ。不思議なことに、啓次郎はこの年に司法省を休職し、奈良県の嘱託となっている。

 実は、当時の明治政府には「海外視察」に行く予定のお歴々がずらりと名を連ねていて、若い啓次郎が順番を待っていては埒(らち)があかないという状態だった。そこでひと肌脱いでくれたのが、当時の奈良県知事・寺原長輝。自分と同じ薩摩藩士の子ということで便宜を図ってくれたのだ。

 明治政府に勢力を持った薩長の「お友達優遇政治」ではあったが、個人の利益ではなく、当時は理想の国づくりのために使われていた。奈良県の嘱託として欧米8か国の約30か所の監獄建築を視察して戻ってきた山下啓次郎は、司法省に復職して、さっそく、五大監獄の設計に取りかかった。