ふと、今いる場所に感じた「限界」
池内さんが担当したのは、ハイエンドのテクニクスというブランドの広報。当時、池内さんの初任給は4万8000円だったが、テクニクスはプレーヤーだけで15万円もする高価なものだった。
「とにかく高いんですよ。でも、“(松下に)入った以上はテクニクスにしなきゃ”と思っていたので、大学時代に買ったコンポは全部、兄貴にあげてしまいました。よく人事に聞きに行きましたよ。“いつになったら社内購入券が使えるようになりますか?”って」
日本のオーディオが右肩上がりに伸びていった時代、ここで学んだことは大きいと池内さん。オタクの元祖ともいえるオーディオマニアの評論家たちと渡りあうのだから、自然とプレゼン能力や話術も磨かれたことだろう。当時の同僚・浅野俊一さんは語る。
「彼のことで覚えているのは、おいしいものへのこだわり。よく“むつこい”と発していて、それは松山で油っこいもののことらしいのですが、残業で疲れるとよく“むつこいもの”を食べに出かけたものです。当時のテクニクスには、変に脚色しないで原音をそのまま再生する『原音忠実』という思想がありました。この哲学は今のIKEUCHI ORGANICにも受け継がれていると思います」
発売前の商品を持ってオーディオ評論家や雑誌社を回る。そんな慌ただしい11年が過ぎようとするバブル終焉前、池内さんはふと今いる場所に限界を感じた。
「'70年代から'80年代、'90年代の物づくりは、どんどん少量多品種になっていった時代。目先の変わったものを作っていくことが技術力と勘違いしていた時代でした。で、あるとき、ふと思ったんです。こんなことを続けていたらアイデアがもたないな、僕の能力では無理やなと」
レコードからCDに切り替わる端境期、池内さんは辞表を提出した。初めてそれを奥さんに伝えたとき、「離婚する」と言われたという。
「“そんなに松下がいいなら松下と結婚すればいいじゃん”と居直っちゃいましてね。子どももいたし、最初はいやいやだったと思いますが、民事再生のときなど本当に支えてもらいました」
社長就任後の紆余曲折を経て、2016年、池内さんは67歳のとき現在の社長である阿部さんに席を譲った。そのときのことを、阿部さんはこう語る。
「上場していない老舗の企業ってほとんどが同族じゃないですか。それなのに、僕のような第三者に任せるということは、血ではなく共感で会社を守ろうとしているんだな。これは、壮大な社会実験だと解釈しました。恐ろしく難しいことですけど、ウチには確固たる世界観がある。僕はつなぐことに徹したいと思います」
池内さんには長男、長女、次女と3人のお子さんがいて、それぞれお孫さんもいるが、継いでもらいたいと思ったことはないという。
「大きな会社なら別ですけど、ウチみたいに小さくてファンが社員になっている会社は、身内が入ってくると組織が崩れます。それに、長男は建築デザイナーをやっていて、チャンスがあればロンドンに移住したいみたいですから。そうそう、末娘が大学生のとき、ウチの会社に入りたいと言っていたんです。修業してこないとねと、ほかの会社に就職させて、うまい具合にそこで社内結婚してくれました(笑)」