”渡邉の子どもかい。かしこいね”
「昭和13('38)年ごろ、看護師だった母・渡邉貞は当時の住居表示でいえば、赤坂区青山北町6丁目42番地に看護師を派遣する看護婦会を設立しました。
近くには陸軍の麻布三聯隊や日本赤十字病院、青山御所(赤坂御用地)があり、看護師を派遣していました。そんなご縁から、青山御所にお住まいだった大正天皇の皇后・貞明皇后にご挨拶することになったのです」
4歳だった渡邉さんは母親からお辞儀の猛練習を受けることに。当日は緊張しながら貞明皇后のお目を見て「ごきげんよう!」とご挨拶をして「渡邉の子どもかい。かしこいね」とお褒めの言葉をもらったという。
「ご褒美は紺の制服生地1着分と虎屋のお菓子。まだ物心つかないころのおぼろげな記憶です」
次の記憶は、昭和17('42)年2月、太平洋戦争開戦後のシンガポール陥落を祝い青山から宮城(皇居)前まで提灯行列に行ったときのこと。
「現在の上皇さまや姉上の照宮成子さま、孝宮和子さまが二重橋にお出ましになり万歳三唱をしました。当時の私は、日本は戦争に勝つものとばかり思っていた典型的な軍国少女でしたね」
昭和20('45)年3月10日の東京大空襲のときは下町だけではなく渡邉さんが住む青山周辺も被害に。父方の祖父を不発弾の直撃で亡くしている。
その後、渡邉さんは親戚が住む秋田県に疎開し、昭和天皇の玉音放送はそこで聞いたという。
「小学校に入ってからは、自分の家は普通の家とは違う。なぜ父親は毎日、家に帰ってこないのか疑問に思っていました。学校では“みどりちゃんのお母さんはお妾さんよね”などと言われ傷つきましたね。
でも、空襲や疎開で身についた“こらえ性”が私を鍛えたのだと思います。
美智子さまの皇后時代の超人的な活動ぶりもその時代を生き抜いてきたからこそだと思っています」
父親を「かくし親」と呼ぶ渡邉さんは、高校のときすでに問題意識があり反骨心ある少女だったようだ。
「通っていた東京女学館の文化祭で原爆展をやろうとしたら左翼的だと教師に反対され結局、退学させられました。
その後、都立の高校に滑り込むことができて、早大に合格することもできました。このころに挫折していたらきっと私は不良になっていたと思いますよ」