家族の名前すら言えなくなっていた患者が犬を介して記憶を取り戻す。車椅子生活をしていた患者が犬に促されてリハビリ意欲を取り戻す。伝説のブルースシンガーは米国で見た「犬が人を救う姿」に感銘を受け、42年間、日本でセラピードッグの育成を続けてきた。こだわったのは捨て犬を「人を救う犬」として生かすこと―。殺処分ゼロを掲げ、人々とふれあい、証明してきた「犬だから、できること」とは―?
人の速度に合わせピタリと寄り添う
東京都中央区にある特別養護老人ホーム『新とみ』。この施設のデイサービスルームに、30人ほどの高齢者が輪を作って座っていた。
椅子に座る人もいれば、車椅子の人もいる。誰もおしゃべりはしていない。みな表情に乏しく、虚空を見つめる人も目立つ。中には、認知症を患う人もいるという。
そこに楽しげな音楽とともに、ダブルの白いスーツ姿の男性が現れた。やや長めの髪と口にたくわえた髭に白いものがまじる。
一般財団法人国際セラピードッグ協会代表で、伝説のブルースシンガーとしても知られる大木トオルさん(69)である。
「みなさん、こんにちは! 今日もセラピードッグがみなさんに会いにやってきました。ご紹介します」
マイクを握り、よく通る声でそう投げかけると、入り口からハンドラーと呼ばれるスタッフに誘導された犬が登場した。小型犬から大型犬まで犬種はバラバラで、みな赤十字のマークがついたグリーンのベストを胴に巻いている。
「今日みなさんと触れ合うセラピードッグたちは、トマト、愛媛・松山から来たゆず、だいだい、ライム、震災犬だった小桜、ゆきのすけです。みなさん拍手をお願いします」
ハンドラーと犬が、中央で輪を作り、歩行訓練のデモンストレーションを始めた。「初めはゆっくり、今度は少し早足で、最後に駆け足になります!」
人間の速度に合わせて犬がピタリと寄り添う。続いてハンドラーが杖をつきながら歩くと、犬は時折、様子を見ながらテンポを合わせてゆっくりと歩いてみせた。
車椅子の人、杖をつく人、障害によって左右に重心がぐらつく人、訓練を受けた犬は、どんな人とも寄り添い歩くことができるのだという。
ふと見渡すと、犬たちを見つめるお年寄りの表情が明らかに緩んでいた。
この施設では17年前にセラピードッグのイベントを導入。月2回、デイサービスの一環として行われている。
大木さんが再びマイクを握って呼びかける。
「ここからは、触れ合いタイムです。みなさん、どうぞセラピードッグたちを撫でて名前を呼んであげてください」
先ほどまでムスッとした表情だった女性が、笑顔になって犬を抱き上げた。
「あなたゆずちゃんというのね。かわいいねぇ~」
それぞれに犬の名前を呼び、楽しげに撫でている。
触れ合いタイムが終わると、再び軽快な音楽が流れた。
「さあ、いつものように行進します。みなさん、音楽にのってセラピードッグたちと歩きましょう」
ハンドラーとセラピードッグ、そして参加者のお年寄りが、一緒に歩きだした。車椅子で来た人も立ち上がり、杖をついて犬と一緒に歩きだす。みんな笑顔だ。
施設長の関口ゆかりさん(61)は言う。
「セラピードッグの名前と顔を覚えると、とてもいい効果があります。介護度が高く、普段は“アー、ウー”しか言わないような方でも犬を撫でるうちに“ワンちゃん!”と笑顔になるんです。不安感の強い人もセラピードッグに触れることで安心するんですね。子どものころ、犬を飼っていた人なんかは特にね。セラピードッグのおかげで思いがけない笑顔が見られます」