一家離散、捨て身で渡米
大木さんは、戦後間もない1951年に東京の日本橋人形町で生まれた。父は建築家で、母は武家出身だった。
子どものころの大木少年には、大きな悩みがあった。それは生まれつき重度の吃音があったことだった。
特に「あいうえお」の母音の発音がなかなかできない。「おかあさん」と呼べないのが何よりつらかったという。
友達も先生も、自分がしゃべり始めるのを待ってはくれない。のどまで出かかっている言葉を必死に声に出そうとする前に、みんなが笑いだすのだった。
学校で過ごす時間は苦痛以外の何ものでもなかった。学校が終わると、一目散に大好きな愛犬メリーがいる家に飛んで帰ったという。
「メリーは、つっかえながらも名前を呼ぼうとする私の目をじっと見つめて待ってくれる。ようやく言葉が出ると、尻尾を振って喜び、こちらの口元をなめてくれるんですよ」
経済的には何不自由なく暮らしていたが、建築事務所を営んでいた父が事業に失敗し、多額の借金を抱え込んでしまった。一家は離散。両親とは生き別れ、12歳のとき、銀座の親戚の家に引き取られる。そこで肩身の狭い思いをしながら、高校卒業まで暮らした。
そのころ、大木さんの心をとらえたのが、英語でヒット曲を流していたラジオの米軍放送。特に黒人たちの歌うブルースには心を鷲づかみにされた。英語の意味などわからないけれど、差別や抑圧の中で生きている喜びを歌い上げるブルースは、大木さんを力強く励ましてくれた。
不思議なことに、話すときには出てこない言葉が、歌えばスラスラ出てくる。
「ブルースシンガーになろう」─大木少年は目標をひそかに掲げ、進み始めた。
16歳になると、高校に通いながら、夜は渋谷や六本木のクラブで歌い始め、バンドも結成。
20代前半には、若手プロデューサーとして、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、クールスなどを手がけた。だが順風満帆の音楽生活の中、突然、結核の診断を受ける。
千葉県松戸市の病院での療養生活は2年半も続いた。
やっと退院したのだが、どうやって生きていくのか全くあてがない。
大木さんが出した答えは、「ブルースの本場であるアメリカで、自分を試してみる」という途方もないことだった。
「家族もいない。止めるやつもいない。何もないって強いんですよ」
1976年、持っていた楽器や機材を売ったわずかばかりの金を持って、25歳の青年はアメリカ・ロサンゼルスに渡った。滞在先は、パコイマという町の黒人ファミリーの家である。