儲からない貧農システム
こうして、農家の長男坊は、17歳の若さで家業を継ぐことになる。
「朝から作業着に着替えて、両親と畑に出る。毎日、その繰り返しだったけど、働くのはちっとも苦にならなかった」
働き手の中で誰よりも若い。力仕事も率先して引き受けた。頼もしい息子に、両親は次々と新しい仕事を任せたという。
「トラクターで土を耕す仕事も任されるようになったんだけど、使い勝手がよくなくてね。いろいろ試して、板を1枚挟んだら、もっと効率的に土を分けられるようになるって気づいたの。それで、町の鉄工所に持ち込んで、直してもらったこともある」
そう、「疑問に思うことが、俺の遊び」。
農家の仕事は、浅野さんの好奇心に次々と火をつけ、「毎日が新しい発見の連続だった」と振り返る。
ところが、収穫の時期を迎えたころ、農家の厳しい現実に直面することになる。
「おやじと初めて取引の現場に行って、驚いた。うちの作物に値段をつけるのが相手なの。手塩にかけて育てても、相手の言い値。ふつう、食品だってなんだって、値段をつけるのは売り手だよね。なのに農家はなんで、自分で値段をつけられないんだって、まったく腑に落ちなかった」
当時、畑で作っていたのは、麦、落花生、里いも、しょうがなど代々続く作物だった。これらの収穫に合わせて、現金収入は年に2回のみ。夏は主に麦を売るが、ビール麦は企業が買い取り、小麦は国が買い上げるため、値段が低く抑えられてしまう。秋に収穫して年末に売る落花生も、安く統制され、いくらにもならなかった。
「だから、貧農。それでもやってこられたのは、本家のじいちゃんが商売人だったおかげなの」
日経新聞を愛読するほどの鷲太郎さんは、経済情勢を読み、知恵を絞って収入を増やしたという。
「例えば、精米機を買って、無料で米を精米させてあげて、お金のかわりに、出た糠を置いてってもらう。これを肥料として農家に売るんだけど、そこでもお金を取らずに、収穫した落花生で納めてもらう。それを倉庫に積んどいて、相場の高いところで一気に売りさばくわけ」
祖父の手腕を間近で見て、浅野さんはつくづく思った。
「人と同じことをやってちゃダメだ。じいちゃんみたいに、独自の視点が必要だ」と。
しかし、若かりし浅野さんに、祖父のような力はまだついていない。新たな道を開拓していくのは、しばらく先のことになる。