かといって、答えを探す作業を、死にゆく人が自分だけでできるかといったら、それも難しいのです。問題が重すぎて、1人では押し潰されそうになることもあります。
誰かに話すことで、少し気持ちを軽くしながら、自分自身を整理していく。そのためには、看取る側は相手を諭すのではなく、目を見てうなずくなど「話をちゃんと聞いているよ」という姿勢を見せることが大切です。
望まれないことはしなくていい
私が関わっていた難病の患者さんに、こんなエピソードがありました。
彼女はすでに歩けなくなっていたのですが、夢は「せかせか歩く」ことでした。
もう絶対にかなわない状態とわかっていましたが、訪問看護師の前で「私の夢はせかせか歩くこと」とつぶやいたのです。すると、その看護師は「もう歩けないし、これから歩けるようにもならないのだから、せめて車椅子に乗せて散歩に行こう」と自分の中で彼女の希望を変換してしまったのです。そして、電動の車椅子を持ってきて、彼女を乗せて外に散歩に行きました。
みなさんはこの訪問看護師の行動をどう思われますか?
この患者さんは、確かに気分転換はできたと思いますが、気持ちは満たされていません。彼女が望んでいたこと、言いたかったのは、そういうことではないのです。二度と歩けない人が「せかせか歩きたい」と言うのは、「死んでしまうけど死にたくない」と言っているのとほぼ同じなんですね。
どうにもならないことは本人もわかっているけど、言わざるをえないということ。ですからそういうときには、私たちは「うん」としか言えないのです。
こちらが余計なことを言わないでいると、患者さんから「昔はもっとゆっくりしたいとか、ゆとりを持って行動したいと思いながらせかせか歩いてたけど、いざできなくなると、せかせか歩きたいのよね」などと話し始めます。それをまた邪魔しないように、黙って聞いていると患者さんは自己完結していきます。
しかし、前述の看護師のように、私たちは「ハウツー」でごまかしがちです。
「最近よく眠れない」と言う患者さんに、マッサージ師がマッサージをしてくれたという話もありました。このときの患者さんの「よく眠れない」という言葉は文字どおりの意味ではなく、本当は「心の痛みのせいで、よく眠れない」と伝えたかったのです。「眠れないから寝不足で困る」という体の問題ではなく、「もう眠れない状態になっているのだ」という、心の痛みを口にしただけなのです。