実は“元気ハツラツ”じゃなかった
「初めて告白すると、実は僕、“障がい者”なんです。まず、肺が片方しかありません。19歳のとき、結核で切除しました。結核は伝染病だから、今のコロナと同じように隔離されました。1年と1か月間です。
同じように隔離された人が最初24人いたのですが、誰かが毎月死んでいく。“次はお前だ”なんて冗談で言い合ってるうちにアメリカから治療薬が入ってくるようになって、運よく退院できた」
ほかにも左の目は、小学1年生のころにボールが当たって弱視になる。
「それと左の耳は、今もほとんど聞こえません。小さいころに継母に反抗して殴られ続けた結果です」
そういったことが積み重なり、あるとき医師にこう言われたという。
「“肺はない、目も耳も悪い、必ずもらえるから、障害者手帳を申請しなさい”と。でも、“元気ハツラツ”と言っている僕が新幹線に乗るときに障害者手帳を出すわけにはいかない。人に見られたら“大村崑は元気ハツラツってウソやで”と言われちゃう。だから申請しなかった。でも、今はそんなに仕事もないし、そろそろもらおうかなって」
その代名詞が生まれたころまで時間を戻そう。日本にテレビの時代がやってきた1950年代。ブレイク後も心の奥底には暗く重い影が常につきまとっていた─。
「気づけばドドーンと人気が出ていた。でも、当時は体力もないから、収録の合間にセットの片隅で寝たりして。先輩漫才師に“コイツ死ぬぞ”と言われたのを覚えています。顔色が悪いのは自覚しており、化粧をしていました。医者からは“40歳までに死ぬ。結婚も無理”って言われたこともあった」
それでも運命の出会いを果たし、'60年に妻・瑤子さんと結ばれる。妻の存在がなければ、芸能界でここまで息の長い存在になっていたかはわからない。というのも、
「当時出ていた生放送の番組内で、僕が大塚製薬の『オロナイン軟膏』という商品名を言うのが評判だったんですが、その役目は先輩の女優に取られてしまった。そしたら大塚製薬の人がウチにやって来て“これから売り出す新商品の宣伝をしてくれないか?”という。それが《元気ハツラツ》の『オロナミンC』でした」
しかし、
「僕は元気なんてないから断ったんです。けど、それを遮って“やらせていただきます”と言ったのが女房。オロナミンCは女房に無理やりやらされたんです。みなさん見覚えのある写真は、16ミリ動画の1コマで、それが雨にも風にも傷まない看板になりました。おかげで当時を回想するシーンに今も出てくる“昭和の顔”になれました」
'17年には功績が認められ『旭日小綬章』を受けた。悲痛な経験があるからこそ、人間の喜怒哀楽を演じる者としての深みが出たという。
「当時の天皇様から勲四等をいただきました。喜劇役者でなかなかもらえませんよ。僕は自分をホメてあげたいのはコレだけ。元気が売りの男が内情は元気ではなかったということも知ってもらいたい」