日夜、お産に向き合う両親の姿

 1965年、東京の新宿区で生まれ、幼少期に横浜、松戸と移り住んだ。

両親、妹、弟と。中学1年生の八田先生(左)
両親、妹、弟と。中学1年生の八田先生(左)
【写真】10代のころの八田先生、同級生からは「高嶺の花だった」とも

「引っ越しが多かったのは、当時、勤務医だった父の赴任先の関係です。松戸で父が『八田産婦人科』を開業したのが、私が10歳のとき。以来、ここが実家です」

 開業とともに、これまで専業主婦だった母親も、新生児の沐浴や介助など、医院の仕事を手伝うようになった。

「当時はお産の件数も多かったので、両親は24時間体制で働いていました。深夜にお産があった翌朝は、休んでいる両親を起こさないように、長女の私が妹や弟の世話をして、学校に行っていました」

 妊婦が産気づけば、両親はただちに駆けつける。家族団欒とは無縁だったが、さみしさは感じなかった。

「当時、医院の2階が自宅だったので、下に両親がいる安心感はありました。子ども心に、両親を困らせたくなかったこともあるでしょうね」

 懸命に働く両親の背中を見て育った八田先生は、早くも小学校時代に、父と同じ道に進もうと決めていた。

「卒業文集に、『将来は医者になる』と書くほどでした。父に憧れてっていうより、長女なので、後継ぎとしての使命感のほうが強かったかな」

10代のころから長女としての使命感、責任感が強かった八田先生
10代のころから長女としての使命感、責任感が強かった八田先生

 そんな少女時代の八田先生を、「目鼻立ちがはっきりした美人で、高嶺の花だった」と振り返るのは小学校の同窓生、齋藤博さん(55)。だが、20年ぶりに同窓会で再会して、イメージが一変したという。

「大人になって話してみたら、すごく気さくで、“なんだ、ふつうと変わらねえな”って(笑)。八田さんをひと言で表現するなら、猪突猛進ですね。

 クリニックのエアコンが壊れて、同級生の電器店を紹介したときも迷うことなく、さっさと機種を決める。新しい医療機器を入れるときも、僕らが“合い見積もりをとったら”ってすすめても、“大丈夫!”って即決。あとから後悔もしない。なんというか、男以上に男っぽい女性です」

 こうと決めたら一直線!

 医師への道も、一途に突き進んだ。

 私立の中高一貫校、東邦大学付属東邦中学校・高等学校を卒業後は、聖マリアンナ医科大学に入学。

 卒業後は、順天堂大学産婦人科で2年間、研修医として研鑽を積み、千葉大学産婦人科に入局。松戸市立病院産婦人科で勤務医として臨床経験を重ねていった。

「妊娠からお産、不妊治療や、子宮、卵巣の病気の手術など、産科も婦人科もオールマイティーに深めていきました。専門医の資格も取って、患者さんのどんな相談にも応えられる力をつけてきたつもりです」

 人一倍勉強して、腕を磨いた。だが一方で、経験を積むほどに「産科の怖さを思い知った」と振り返る。