40代、米国留学に再挑戦!
早速調べたところ、私立は無理でも州立の学費なら贅沢をしなければ貯金で何とかなりそうだとわかった。四季があるエリアがよいと東海岸の州立大学をピックアップしていく。入学には各大学が独自に設けているTOEFLの基準点を満たす必要がある。そこで、神田外語学院に通い、いくつかの大学に願書を送った。
「そのとき、いちばん最初に“受け入れます”と、お返事をいただいたのがコネチカット大学だったんです。これもご縁だと思って、コネチカット大学に決めました」
生計を立てる算段より、まずは果たせなかった夢を追う選択をした平野さん。帰国後、どうやって生活費を稼ぐかを考えないわけではなかったが、生来の能天気さで、「まあ、なんとかなるでしょう」と前向きに捉えた。この時点では、自分がケーキ職人になるとは夢にも思っていなかった。
アメリカに行く前に、平野さんがどうしても了承を取っておきたかった人物がいる。2人の子どもと母親だ。
「息子は堅実で、“留学に800万円もかかるの?そんな無謀なことはやめて僕に投資すればいいのに”と言っていましたが、自分の思いを話したら“それだけの決心があるならしょうがないね”と納得してくれました。娘は“行ってらっしゃい。卒業できたら快挙じゃない。卒業できたらね”と賛成してくれて。
意外なことに、母は離婚も反対しなかったし、留学の話をしたときも渋々賛成してくれたんです。母も元夫の態度を見たり、いろいろ経験したりで、思うところがあったんでしょう」
念願のアメリカの地を踏んだ平野さんは、キャンパスライフにも慣れ、充実した日々を送っていた。そんな矢先、悲しい出来事が起きた。同じ寮内で暮らす25歳の中国人留学生の女性が急死したのだ。
「最初はただの腹痛だと思って我慢していたみたいです。けれど、その後も痛みが続き、大学の診療所に行ったときはもう手遅れでした。
大学側の処置の仕方によっては助かったんじゃないか……と、留学生対大学の大論争に発展したんです。
彼女は英語もペラペラで、とても優秀な子だったんですけどね。
やりきれないし、アメリカという国は大げさに物事を伝えないと応えてくれないんだと思いました。と同時に、誰も頼る人がいなかったこともあって、初めて強烈な孤独を感じたんです」
孤独だったこの期間、これから自分はどうやって生きていきたいのかを深く見つめ直したことが、その後の縁を引き寄せる大きな契機になった。
最初の出会いはジャック・ケルアックをはじめとするビート文学に通じ、英文学の基礎クラスを持っていたアナ・チャーターズ先生だ。18、19歳ばかりの学生の中でひとり40代だった平野さんはアナ先生と年が近く、すぐに親しくなった。それまでは大学の寮に住んでいたが、「ウチに来ない?」と声をかけられ一時的に下宿していたほどだ。
「料理もお上手な方で、たまに食事をご一緒すると食後は毎回手作りのケーキが出てくるんです。特にポピーシードケーキが何ともいえないプチプチとした食感で、ものすごく美味しくて。
あるとき、“帰国後は英語で食べていこうと思っていましたが、勉強すればするほど自分程度の英語力では無理だと思うんです”と相談したら、“ニューイングランド地方のデザートを勉強したら?”とおっしゃって。
しかも、“アメリカンケーキと謳っても日本では流行らないだろうけど、ニューイングランドとはイギリスの迫害を逃れた清教徒が移り住んだアメリカ北東部6州のことで、移民たちは自生していたりんごでアップルパイを焼いていて……ってストーリーを語ることができるじゃない?”と言うんです。賢い人は考えることが違いますわ」
アメリカには“As American as apple pie” という表現がある。「アップルパイの如くアメリカ的」という意味だ。これほどアメリカを象徴し、親しまれている食べ物もないだろう。「これだ!」と思った平野さんは、すぐに先生を探し始めた。