性被害の末、母に捨てられて
1970年、暴力団員の父親とストリッパーの母親との間に竹田さんは生まれた。
「生まれてすぐに生存率50%の難病・結核性髄膜炎にかかっていることがわかり、入院。生死の境を彷徨いました」
退院後、預けられたのは父方の祖父母の家だった。
「母は全国を旅するストリッパーだから会えても月に1度くらい。父は刑務所を出たり入ったりしていて、ほとんど会えませんでした」
小学校の連絡網に両親の仕事を書く欄があり、父が暴力団関係者で母がストリッパーであることが知れると、学校では壮絶なイジメに遭う。1年生から不登校になった。
「小1のとき、和式のトイレの掃除をさせられ、汚い水の中に頭を突っ込まれました。悲しくて家にあった置き薬を全部飲み、自殺を図ったこともありました。
小2になって、勇気を出して学校に行くと、クラスメートに教科書を隠されて。“忘れました”と先生に言うと、冷たい廊下に正座させられました。トイレに行きたくなり先生に言っても“我慢しなさい”と叱られ、粗相して。みんなに笑われたときは、生きた心地がしませんでしたね」
それ以来、祖父母は「学校に行かなくてもいいよ」と家庭教師をつけてくれた。孫に甘い祖父母だった。
小学4年生のとき、両親は離婚。ストリッパーを引退した母親との同居生活が始まる。
「母が呼び寄せてくれたときは、本当にうれしかった。母は華やかできらびやかでアイドルみたいで憧れていました。当時は“私も母の後を継いでストリッパーになりたい”と密かに思っていました」
しかし、母との同居生活中、性虐待に遭う。
「ヒモらしき男が母のいないときを見計らってやってきていたずらされたときはショックでした。ヒモにぞんざいな態度をとると“なんで愛想よくできないの” “パパになるかもしれないんだよ”と言われ、“なんでこんな男といるんだろ。お母さん早く気がついて”と心の中で叫んでいました」
そしてある日、母親が突然失踪してしまう。事情を知らない竹田さんは家で不安を抱えたまま数日間を過ごした。
「帰りが遅くなったり、帰ってこない日もあったので、最初のうちは気がつきませんでした。ところが、怖いおじさんが家に来るようになり、母が借金取りに追われていなくなったことを知りました」
母親はストリッパーを引退した後、劇場の経営に携わったが、火の車。周囲からお金を借りて、蒸発した。
「最初は母がさらわれたんじゃないかとか、母はご飯をちゃんと食べてるのか、とか心配していたんです。でも、日がたつにつれ“私は捨てられたんだ” “お母さんに愛されていなかったのかな” “大病したのも、いじめられたのも生まれてきてはいけない子だからかな”と悲しい思いがこみ上げてきました」
1人になった竹田さんは、母親の妹夫婦の家に預けられた。
しかし、子育てをしたことのない夫婦は、反抗的な態度をとる竹田さんにどう接していいのかわからず、飼っていた猫ばかり可愛がる。竹田さんのイライラは頂点に達しつつあった。
「私は母に捨てられたかわいそうな子ども。なのに、みんな私を無視する。もっと私を見て、私と喋って。そんなやり場のない怒りから、私は飼っていた猫を高いところから落としてしまいました」
取り返しのつかないことをしてしまった竹田さんは、家を追い出され、親戚中をたらい回しにされた。暴力事件を起こし、教護院(現在の児童自立支援施設)に預けられたのは小学5年生のとき。施設でも荒れに荒れ、問題を度々起こした。