東日本大震災と福島第一原発事故の発生から間もなく11年がたつ。当たり前だった光景や生活は一変し、いまだ日常を取り戻せない住民も少なくない。とりわけ原発事故に翻弄され続けてきた子どもたちは、この11年、何を思い、どう生き延びてきたのか。未曽有の事故は何をもたらしたのか―。大人になった3人の体験や言葉を通して、今、考える。
9歳の願いは「天国に行きたい」
「よかった、(取材時に息子は)これからの話なんてしたんですね。数年前のあの子は、そんなことは考えることもできなかったから」
前を歩く鴨下全生(まつき)さん(19)を見ながら、母・美和さんはそう言った。原発事故後、都内に避難をした全生さんは、避難先でいじめに遭い、過酷な少年時代を過ごしていた。
空き地のツクシを佃煮にして食べたり、かるがもの子どもの迷子を助けたりするような自然豊かな暮らしが一変したのは、2011年3月11日。東京電力・福島第一原子力発電所の事故が打ち砕いた。
当時、福島県いわき市に住んでいた全生さんは8歳。母と習い事に出かけようとしていたところで地震が発生した。家の前で、母に抱きかかえられたまま、長い揺れがおさまるのを待った。
母とすぐに保育園にいた弟を迎えに行き、いわき駅に出かけた祖父を探しに出た。
駅前は地震で混乱していると見込んだ母は、全生さんと弟の2人に「必ず帰るから、絶対に車から出てはダメだからね」と少し離れた駐車場に残し、駅へと走っていった。
しかし、いつまで待っても母は戻らない。余震は続いていた。そのうち弟が「トイレに行きたい」と言い出し、全生さんは母との約束を破って、弟を近くのガソリンスタンドのトイレに連れていった。
1時間半ほどで、母が戻ったとき、全生さんと弟はわんわん泣いていた。
「弟は心細かったから泣いていたかもしれないけれど、僕は約束を破っちゃったという気持ちで泣いていた」
と、全生さん。当時8歳の自分には、地震や津波で人が亡くなるということも「ピンときていなかった」と言う。
翌朝5時ごろ、「避難をするよ」と両親に言われ「おもちゃを3つ選んでいいよ」と言われた。弟が4つ持っていきたいと言うので、全生さんは1つ分の権利を弟にあげて車に乗り込んだ。
移動中は、いつ寝て起きたのか覚えていないが、母が原発から放射性ヨウ素が放出されるのを懸念し、大量の海苔を食べさせられたことは覚えている。甲状腺の被ばくを避けるためだ。政府からの避難指示はなく、いわゆる「自主避難」だった。このころ、次々と爆発する原発の状況に不安を感じた福島県の多くの人が、県外へ避難をしていた。
19時間半かけてたどり着いた横浜の親戚の家で、全生さんは驚いた。外は暗いのに時計が1時を指していた。
「1時は明るい時間のはず!」
しかし、夜なのが不気味だった。親戚の家には長居はできず、数日で別の親戚のところに身を寄せた。避難先を転々とする中で、全生さんの学校生活も始まった。そこで、いじめられるようになった。
全生さんは言う。
「本当は、思い出さなくていいなら、思い出したくない」
私物に落書きをされたり、一方的に暴力をふるわれたり、“菌扱い”をされたりすることも当然つらかったが、いちばんつらかったのは人間扱いされないことだった。
「いじめられているうちに、“自分が悪いんだ”と思い込まされてしまったんです」
と、全生さんは当時を振り返る。
9歳の願い事は「天国に行きたい」だ。
そのいじめの構造について、こんなふうに話してくれた。
「最初のころは、いじめはなかった。僕が“避難しているかわいそうな子”だったからです。でも、だんだんほかの子たちと同じように過ごすようになると─、例えば、支援物資をもらっていた僕が、同じような生活ができるようになると“社会的地位が下だったはずなのに”という感情が起きるんじゃないでしょうか」
当時はひたすらつらさに耐えていたが、次第に、「なぜ差別やいじめが起きるのか」と考えるようになったという。
激しいいじめから逃れるために中学受験をした。中学生になってからの全生さんは、避難者であることを隠して生活した。それ以降は友達も増えて、楽しい生活だった。だからこそ、隠すことはつらかった。
全生さんが言う。
「ポスターなどでも“思いやり・仲よく”といった言葉でいじめをなくそう、と謳っています。でも、そうじゃない。
どんな理由があろうといじめはダメ、だけでいい。どんな人間も、たとえ最低なヤツでも、守られるんだという考え方が必要だと思う。だから、人権の問題だと思います」