2人に1人がなる病気だから、「お互い様」の職場環境づくりも大切だ。部下からがんだと伝えられた際の対応を学ぶ、ロールプレイ研修には400名以上の同社管理職が参加。上司の第一声が「(休まれると)困るな」か、「(復帰を)待ってるよ」では、当事者が受ける印象は違ってくるためだ。
自宅最寄り駅の見慣れた光景にも感謝できた
小杉さんの話に戻すと、2回の手術を経た今は、ごくありふれた日常に感謝する気持ちが強まったという。
「病院のベッドから見ていた天井や、タイル貼りのトイレはもう2度と見たくないです。いちばん苦手だったのが病院食で、隣の人がトレイにカトラリーを当てて、むやみに立てる音でも吐きそうになりました。それぐらい嫌でした」
腫瘍内科医の押川勝太郎さんによると、抗がん剤の副作用である吐き気は、食べたり、飲み込んだりする際にとくにひどくなるという。
「それが繰り返されると、梅干しの話をすると現物がなくてもつばが出るのと同じことが起こります。配膳台車が通る音や、食器の音に反応して食事が想起され、条件反射で吐き気の記憶がよみがえってくるからです」
2回目の摘出後は体調も安定していて、定期検診だけを続けている。また、業務上のトラブルや社内外の人間関係などがあっても、必要以上に気に病むことが減った。生きて働けているだけでありがたい、という気持ちが強いからだ。
「1歳7カ月になる娘と妻と私が健康であれば、もうそれだけでじゅうぶんです。退院後に自宅の最寄り駅に降りたときには、見慣れた景色にさえ思わず手を合わせたくなりました。あのときの『これ以上いったい何を望むんだ?』という気持ちは、これからも大切にしていきたいと思います」(小杉さん)
失ってみないと気づけないことがある。だが、本当に気づけたときに笑顔はもっと身近なものになる。
(監修:押川勝太郎・腫瘍内科医師)
荒川 龍(あらかわ りゅう)Ryu Arakawa
ルポライター
1963年、大阪府生まれ。『PRESIDENT Online』『潮』『AERA』などで執筆中。著書『レンタルお姉さん』(東洋経済新報社)は2007年にNHKドラマ『スロースタート』の原案となった。ほかの著書に『自分を生きる働き方』(学芸出版社刊)『抱きしめて看取る理由』(ワニブックスPLUS新書)などがある。