レース前日まさかの交代
「人生の恩師」との出会いは衝撃的だった。順天堂大学陸上競技部の監督、澤木啓祐さんである。いわゆる根性論ではなく、データに基づく理論的なトレーニングを実践する指導者だった。
「高校3年のインターハイの後、澤木先生がスカウトに来たんですよ。それでいきなり『上田くん、君のような身体の小さな選手が、成長期に無理なトレーニングをしていい記録を出したとしても、その後に伸びたというデータはない』と言い切ったんです。正直『はぁ?何言ってんの』って思いましたね。でもその後に『将来伸びるにはひとつしか方法がない。俺のもとに来い』と誘われたんです」
澤木さんの専門的な話には説得力があった。何ともいえない迫力に惹(ひ)かれた。この人についていけば間違いないと確信して、順天堂大学への進学を決意する。
箱根駅伝を見据えて2月にハーフマラソンの大会に出場すると、当時の高校生最高記録を塗り替える。ところがそれで気が緩んだのか、座骨神経を痛めてしまうのだ。
鳴り物入りで入学したものの、故障の影響で満足に走ることができなかった。もやもやした気持ちをごまかすように、上田さんは東京の街へ繰り出す。
「もう生活が当時のヒット映画『ロッキー』ではなく『サタデー・ナイト・フィーバー』になっちゃって。マルイのクレジットカードで似合わない洋服を買って髪を伸ばして、ディスコで踊ったり。気づかぬままに現実逃避をしていました」
ケガが治った後も練習に身が入らず、指示どおりにただ走るという作業を繰り返していた。夏合宿のころには他の選手との力の差を感じて焦り出すが、それで無理して練習すると貧血を起こした。負のスパイラルだった。
「スポーツは必然を生むために努力が必要なんです。100%ではないけれども、勝つことが必然となるように努力を重ねる。それを自分ができていないとなると後悔しかないんです」
12月になり迎えた箱根駅伝エントリー(出場選手登録)。上田さんはアンカー10区に指名される。練習がまともにできていないなか、順位を左右する重責のアンカーを走れるのかというプレッシャーに襲われる。
「なんでもっと走り込んでおかなかったんだ、一体何をやっていたんだ……」
本番までの2週間はため息ばかりついていた。
'78年1月2日。箱根駅伝の往路で順天堂大学はトップに立つ。上田さんは翌日の復路10区に向けて付き添いの波多野宏美さんと準備を万全にして就寝する。不安で眠れずにいると22時半ごろ、主将の田中登さんが部屋を訪ねてくる。
「田中さんに『明日アンカー頑張ります』って言ったら『いや、おまえは頑張らなくていい』と。澤木先生からの伝言で波多野の付き添いに回れということでした」
つまり当日にエントリーを変更する交代要員、当て馬だった。
選手変更をいつかは告げられるとうすうす感じていたものの、突然の通告に一瞬われを忘れたという。上田さんは、小銭入れを握り締め合宿所近くの公衆電話へ急ぐ。かけたのは故郷・香川にいる父親の親司(ちかし)さんだ。
受話器から聞こえた声は「どうせ選手を外されたんだろう」。なぜかお見通しだった。
「おまえはどういう気持ちで大学へ行ったんだ?自分自身の1年間を振り返ってみろ。ケガで自暴自棄になっていたんじゃないのか」
こんこんと説教を続ける父親の電話を切ることができなかった。40秒ごとにガチャンと100円玉が落ちる音がする。
「言われたことが当たりすぎてて。この電話を切ったら自分が駄目になるという気持ちで聞いていました。ボロボロ泣きながら」
最後プーッと電話が切れた後も、ずっとその音を聞いていた。
「この音は忘れることのできない、私の心の原風景です」
後から10区を走った波多野さんに聞くと、監督から事前に告げられていて準備をしていたという。この年の順天堂大学は総合2位だった。
これを機に上田さんは目標志向型に切り替わった。後悔した時間を取り戻すように練習をこなしていく。晴れて2年生の箱根駅伝は5区山上りを任される。
「初めての箱根は無我夢中でした。箱根湯本駅前のところで先行する早稲田大学を抜いたのは記憶にあるんですが、後は思い出せない。
芦ノ湖に入る直線で応援団の太鼓の音がドンッて響いて『あ、先頭なんだ』と気づいたら自然と涙が出てきて。言葉に表せない喜びを感じましたね」
見事、区間賞を獲得し順天堂大学の総合優勝に貢献した。
3年でも5区に挑み2年連続の区間賞に輝くが、チームは総合2位。主将となった4年では捻挫の痛みに耐えながら5区で2位の力走を見せた。
「大学の4年間をひと言で表すと『疾風に勁草(けいそう)を知る』の『勁』だったと思います。中国の後漢書の一節で、大好きな言葉ですね」
疾風に勁草を知る、とは激しい風が吹くと強い草が見分けられる、つまり困難なときこそ人間の真価がわかるというものだ。
「『何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ』という言葉も大事にしています。根を張る努力をするのはスポーツの本質ですから」