「あれはな、おまえのお母ちゃんじゃねえぞ」

 子どものころの最初の記憶を辿(たど)れば、そこにあるのは海辺の家と祖母の姿だ。

「ばあさんを『母ちゃん』って呼んでました。おっぱいもしゃぶってた記憶がある」

 第2次大戦最中の1943年、三重県津市で生まれた。

 父の潤一は海軍の主力艦隊・第一航空艦隊の参謀で、麿さんが1歳のころ、テニアンの戦いで自決したと聞かされている。母はその訃報を受けて心を病み、実家に戻されていた。物心がついたとき、本当の母はいなかった。

 小学校に上がる前のある日、近所の悪ガキがからかうように入れ知恵をした。

「あれはな、おまえのお母ちゃんじゃねえぞ」

 それからうまく言葉が出なくなった。「おか、か、あちゃ」と言い淀(よど)む。何と呼んでいいかわからない。

「ばあさんはそれ以降、母が鏡を見ながら独り言を言っていたとか、僕を逆さまにおぶって歩いたとか、母のことを悪くばかり言うようになりました。母がそうなら、僕もいつか頭がおかしくなるかもしれない。そんな不安をずっとどこかに持ち続けていた」

 一方、父は立派だったと繰り返し聞かされた。麿さんは、その父の1人息子として祖母や親戚の期待を受け、可愛がられ、大事にされた。

 海軍の白い制服を着て6つの勲章を左胸につけた父が写真の中から麿をじっと見つめている。30代半ばの凛々(りり)しい顔立ち。それに応えようとする気持ちもどこかにあった。

 小学生のころ、暇さえあれば目の前の海で1人で泳いだ。

「裸で海に飛び込めば、日常のややこしいことは大概解決する。日焼けして、消し炭みたいに真っ黒になってたな」

 台風で祖母と暮らしていた家が浸水し、奈良に住む叔父の家に引っ越したのは、小学校5年生のときだ。奈良には海はないが、叔父の家のすぐ裏の、三輪山の麓から見る夕日は美しい。四季が彩るなだらかな山も好きになった。

 6年生になる直前のある朝、大汗をかいて目が覚めた。肺浸潤という症状で結核の一種だ。安静と規則正しい生活が必要なため入院期間は9か月に及んだが、その入院生活は刺激的なものだった。

「男ばかり20人の大部屋で、いろんな人がいましたね。ひろし(麿さんの本名)、こっち来いと呼ばれては、いろんなことを教えてもらった。詩吟に習字、文学。春画を見せてくれる人もいた。下の階の女性の部屋に恋文を持っていくのも僕の役目でした」

 しかし、楽しいことばかりではない。昨日話していたおじさんが翌日亡くなっていることもある。ハラハラと散る桜を大部屋の窓から見つめながら、「来年になったら僕も死ぬのかな」と考えたこともあった。

「僕に親がいないことをみんななぜか知っていた。それで不憫(ふびん)だと思って気にかけてくれていたんだろうな。あの9か月で僕の情緒も随分膨らんでいったよね」