新宿、唐十郎、土方巽との出会い
高校は進学校に進み、演劇を続けた。チェーホフ、イプセン、シェークスピア、木下順二──。図書館にあるかびくさい戯曲や演劇の本にも手を出した。卒業後、新劇俳優を目指して上京し、早稲田大学に進学したが、当時は学生運動の真っただ中だ。
「金がないからヤクルトの寮に住み込みで働いた。仕事は早朝3時間の配達だけ。配達用の自転車で大学に数回行ったけど、大学はやってないし、やっていてもつまらない。そのまま自転車で新宿に行って、わけのわかんない映画見て、パチンコして1日が終わる」
大学は3か月でやめた。木下順二作の戯曲『夕鶴』の「つう」役を務めた山本安英さんに憧れ、山本さん主宰の劇団「ぶどうの会」に合格し入団するも、半年で劇団が解散してしまう。
週に1度、土曜日は徹夜で印刷所の梱包バイトをして4500円を稼ぎ、それ以外は新宿であてもなくフラフラしていた。ヤクルトの寮を出て、帰る家もなくなった。仲間の家を身ひとつで泊まり歩く。時給100円の時代、4500円は大金だった。
当時、新宿には文化人や芸術家、その卵が集まっていた。ゴールデン街などの飲み屋と並び、名曲喫茶の風月堂は有名で、岡本太郎や谷川俊太郎、寺山修司も出入りしていた。
「絵描き、役者、劇作家、ヒッピー、フウテン、みんな芸術家みたいな顔して座ってる。僕も毎日窓際の定位置に座って新宿東口の通りを見ながら1杯のコーヒーで1日過ごした。コーヒーもハイライトもあのころは70円だったね」
劇団『状況劇場』を立ち上げた劇作家の唐十郎さんと出会ったのも風月堂だ。1965年、22歳だった。
「やりたいことは新劇じゃない。演劇からはみ出したものを欲していたところに声をかけられてね。すっかり意気投合した」
唐さんが女優の李麗仙さんと暮らす4畳半のアパート。みかん箱を机にしてカリカリと音を立て台本を書く唐の背中に、「ほら、早く書けよ」とはっぱをかけたあの日から、運命は動き始めた。
しかし当初、演劇評は酷評ばかり。劇場を飛び出し路上で上演すれば警察に捕まり、新聞に大きく掲載された。
「載るのはいつも文化面じゃなく社会面。自称劇作家とか自称俳優なんて書かれてました。皮肉なことに、それが宣伝になって客はどんどん増えていったけどね」
その後、状況劇場は花園神社の紅(あか)テントで上演するようになり、一世を風靡(ふうび)する。
舞踏家の土方巽(ひじかたたつみ)さんと出会ったのもちょうどそのころだ。
「ある日、風月堂で可愛い女性に手招きされて、ついていったんです」
着いたのはごく普通の一軒家。中に入るとバレエの稽古場のようだった。赤いハイヒールが天井から吊(つ)るされている。壁には横尾忠則や寺山修司のポスターがあった。
「先生、連れてきました!」
「おう、上がれ〜」
よくわからないまま声のする2階へ梯子(はしご)で上る。そこには、火鉢の前で背中を丸め、どてらを着た男性が座っていた。よく見ると舞踏家の土方巽さんだ。高校時代、雑誌『美術手帖』で見たことがある。
「餅、食え」
座った途端、火鉢で焼いた餅をいきなり素手に渡された。
「アチ、アチッ、アチチ!」
熱くて持っていられないから餅を何度も持ち替えてハフハフと食べる麿さんの様子を見て、土方さんはこう言った。
「面白い餅の食い方するねえ。その動きは面白いぞ」
自分の身体の反応を意識したのはそのときが初めてだった。
そのまま一緒に酒を飲み、翌朝起きると今度は稽古を見学した。稽古が終わるとまた呼び出された。
「よし、今晩仕事だ。金粉を身体に塗ってこのキャバレーに行け」
何が何だかわからない。楽譜と金粉とスーツケースを渡され、都内のキャバレーに1人で向かう。
「こうなったらやってやろうじゃないか」と腹を括り、15分2ステージをなんとかやってのけた。
裸で全身に金粉を塗り、音楽に合わせて身体を動かす「金粉ショー」。イロモノ的な扱いだったが、これが思いのほか金になる。
2000円のバイト代をもらうとその日から土方さんの稽古場に住み、状況劇場の公演がないときは金粉ショーで食いつなぐようになっていた。