土方さんの金粉ショーを見習って

「基本的に客は、金粉ショーには興味がない。だからあれこれ工夫する。そのうちに身体の面白さに目覚め始めた。そのころから唐のセリフが邪魔になってきてね。僕にとって、唐という才能との訣別(けつべつ)は、芝居をやめることだった」

 状況劇場をやめたのは29歳のとき。その少し前に長男の立嗣さんが生まれ、生活費も必要だった。

 後に2人の息子の母となる当時のパートナーは“風月堂の女王”と呼ばれていたマドンナ的な存在の女性だ。出産のために入院はさせたが、退院させる金がない。

 知り合いから「米を仕入れて産地直送で売れば荒稼ぎできるぞ」と聞き、仲間を集めてやってはみたが、どうもうまくいかない。手間ばかりかかって利益も少なく、米が大量に売れ残った。

 さらに、妻が長男の立嗣さんを連れ帰ったアパートに、麿さんを慕ってきた若い衆が7、8人居着いてしまった。

初めて赤ん坊を見たときは、よく泣くもんだと思ったけど、愛(いと)おしいもんです。お風呂も入れました。ただね、若いやつらがそのアパートにゴロゴロといて、まるで中学のころの演劇部の部室みたいになって。まあ、子どもが泣けば誰かがあやしてくれたけど」

 近くの公園であてもなく稽古をしたり、身体を鍛えたり。この先どうするかもわからないままに過ごしていた夏の日、ハッとひらめいた。

「クソ暑い日に若い衆がアパートの部屋で寝ているとき、マーラーの曲をなんとなくかけたんです。そうしたらみんなのアホづらが急に高貴なものに見えてきた。

 誰にでも天から与えられた才能は何かある。そう思えました。道端の花も、いい音楽が流れるだけで意味のあるものに見えてくるでしょう。身体には歴史が刻まれている。そのままでひとつの作品なんだ」

 この考えをもとに、ショーをやろうという思いが、沸々と湧き上がってくる。そのころには、次男の南朋さんも生まれていた。生活費と活動資金集めが必要だ。

「そうだ、金粉だ!と思ってね。土方さんのやり方をいただいて、教わったとおりにやったらザクザク稼げました」

 金粉ショーの稼ぎで東京都大田区・大森に稽古場を借りた。稽古して金粉ショーで稼ぎ、稽古場で寝泊まりする日々が始まった。売り上げは年間2億円に及ぶ年もあったが、ほとんどを本番と稽古につぎ込んだ。稽古場は大森、自宅は阿佐ヶ谷。往復している時間も惜しい。麿さんは自宅に帰ることが徐々に少なくなっていった。幼いころの立嗣さんにとって、父親の記憶は「たまに現れる、怖い、めんどくさそうな男の人」だった。