1957年3月に創刊され、'22年3月に65周年を迎えた『週刊女性』。メモリアルイヤーを記念した“同級生”への特別インタビューの最終回は、マラソンランナーの瀬古利彦さんが登場。数々の国際大会で優勝し、現在は箱根駅伝の解説でもおなじみの彼に、人生のターニングポイントと理想の生き方について聞いた。
「人生ね、うまくいかなかったよ」
朗らかな声でそう語ったのは、マラソンランナーの瀬古利彦。'80年代に日本を代表する陸上選手として、世界を相手に名勝負を演じてきた彼だが、その舞台裏では知られざる苦悩と葛藤があった─。
全国で敵なしも大学進学で初めての挫折
1956年に三重県に生まれた瀬古は、小学生のころから足には自信があった。
「運動会では負けたことがない。とにかく足が速くて、リレーでビリでバトンをもらっても全員ごぼう抜きするくらい。でも、全校生徒合わせて30人くらいの小さな学校だったので、自分がどれほど速いのかはわからなかったんです」
中学に入学し、野球部員として練習に励んでいた1年生のころに、全校マラソン大会に出場。ここで、自らの足の速さを実感するようになる。
「2年生も3年生も一斉にスタートしたんですが、私がぶっちぎりで優勝しちゃって。それが陸上部の先生の目に留まり、市内の大会に出ることになりました。腕試しの感覚で出てみたら、市大会、県大会でも優勝しちゃって。ピッチャーとして体力をつけるために走り込みしていたら、それが自然と長距離の練習になっていたんだよね」
陸上での高校進学を選び、本格的に練習に取り組んだ瀬古は、インターハイで2年連続2冠を達成。すでに全国でも敵なしだったという。複数の大学から陸上での誘いがあったなか、早稲田大学への進学を決意したが……。
「大学進学で初めての挫折を経験しましたね。だいたい受かると聞いていたのに、いざ受験したら受からなくて(笑)。1年浪人して再挑戦しようと考えていました」
浪人生活中にはアメリカ留学を決行したが、慣れない土地でのストレスで体重が10キロ増えてしまったという。それでも猛勉強の末、1年後、早稲田への入学を果たした。
「当時の早稲田は駅伝の強豪校とはいえず、グラウンドには雑草が生い茂り、部室もぐちゃぐちゃで、ひどい練習環境でした。こんなところでやるんだと思いながら最初の合宿に行き、中村監督に出会ったんです」
瀬古が“恩師”と仰ぐ中村清さんは、同じく早稲田大学出身で在学中に1500mで当時の日本記録を樹立したことも。瀬古の入学とほぼ同時期に早稲田競走部の監督へと就任していた。
「おじいちゃんが来るらしいと聞いて楽しみにしていたら、来るなり自分の頬を叩き出したんです。“早稲田がこんなに弱いのはおまえたちのせいじゃない、謝りたい”って。強烈な初対面でした」