自分は女の子だと思っていた
マキさんこと宮本昌樹さんは1958年、茨城県那珂湊(なかみなと)市(現ひたちなか市)に生まれた。生家の宮本家は古くは網元として廻船(かいせん)問屋を営み、その仕事を畳んだ後も手広く商売をする家として地元では知られた旧家であった。
この宮本家、祖父以前の3代は皆婿養子をとった女系家族であり、久々に宮本家嫡男として生まれ、長く市議会議員を務めた祖父と祖母の間に生まれた子は、後にマキさんの母となる娘1人だけだった。お嬢様として育てられたその母が婿をとり、2人の娘を産んだ後に生まれたのが、宮本家待望の男子である昌樹であった。その後に生まれたのも妹だったため、マキさんは宮本家たった1人の跡取りとして大事に育てられた。
「でも、その息子がオカマになっちゃってねぇ(笑)」
地元選出の国会議員や有力者などもよくやって来る家であったため、教育も含め厳しく躾(しつ)けられたものの、お稽古ごとも遊びも趣味も、自分の好きなことをやらせてもらえたというマキさんは、家の中で姉妹と遊ぶことも多く、幼いころから「自分は女の子だと思っていた」と言う。
「もともと細くて女性的な身体つきだったし、小さいときから“マキちゃん”と呼ばれていて、姉たちとよく一緒に遊んでいたのもあってずっと女言葉が当たり前で、家の中もかかあ天下でしたから、誰も不思議に思わなかったんですね。本当はアタシは女の子の心を持っていたんですけど、それには周りの誰も気づいてなかったんです」
初恋は幼稚園児のとき、クラスの同級生だったという。
「背が一番高くて、走るのが速くてね。色の浅黒い男の子でした。その彼が親御さんの転勤で大阪へ行くことになって、わんわん泣いたんです。それが最初の恋でしたね」
男子とはほとんど遊ばず、スカートめくりなどもせず、姉たちの影響で読んでいたのも少女漫画だった。
「池田理代子、一条ゆかり、萩尾望都……中でも一番好きだったのは楳図かずおね。もう全巻フルセットでそろえるくらい!それから女性誌もよく読んでいたし、もう少し年齢が上になってからはファッション誌もよく読みましたね」
マキさんの2学年上で、当時のことをよく知る同郷の富永文也さんは「小さいころから明るくて頭が良く、可愛い子ではなく、可愛らしい子でした」と語る。
「お祖父(じい)さんが議員さんだったので上品なのだと思っていましたが、現在のマキさんを思えば、このころからオネエだったのでしょうね。でもまったく卑屈にならず、隠すという考えもなく、もちろんイジメなどありませんでした。これはマキさんの人徳かもしれません。
また那珂湊は港町で、昔から船主さんが多く、海が時化(しけ)たといってはお酒、祭りだといってはお酒、何事かあるとお酒というように、船主さんと船員さんが楽しく飲む土地柄なんです。その宴席には芸者さんも入るのですが、これは郷土史にも載っているんですけど男芸者もいたようなところだったので、男女や上下などでの差別はなかったんです。そんな寛大で粋な土地柄の那珂湊で育って、マキさんは幸せだったと思いますよ」(富永さん)