両胸全摘出で「女じゃなくなる」
精密検査の結果、左胸に小さい腫瘍が4つ、右胸にもがんが見つかった。さらにしこりが乳房の下のほうにもできていたため、両胸の切除を告げられる。
「実は左胸のがんが見つかった時点で左胸の全摘をすすめられていました。胸をとると言われたときは、がんの宣告よりもつらかったです。胸は女性のアイデンティティーですから喪失感は大きい。自分は女じゃなくなってしまうと思って、その夜は涙が止まりませんでした」
このときは、がんを人に知られるのが嫌だったという。しばらくは身近な人以外に病気を隠していた。
「傷つくのが怖かったんです。胸を失う喪失感は体験した本人にしかわからないんですよね。だから、何げないひと言にすごくへこんだりする。私自身かなりセンシティブになっていたので人に言わないでおこうと思いました」
しかし鍜地さんは1か月後にがんの公表を決心する。そのきっかけは、別の友人に言われたひと言だった。
「留学時代の友人にがんの話をしたら『鍜地陽子の見せどころだな』と言われたんです。最初は驚きましたが、たしかに私は病気に負ける弱い人間ではなかったと腑に落ちて。再建手術をして立派な胸にしようと思えたことも前向きになれた理由のひとつ。乳がんに悩む人たちの助けになればと思って公表を決めました」
フラメンコが苦しい闘病の支えに
2021年4月28日、手術がいざ終わってみると気持ちはずいぶん楽になったという。
「手術前は不安ばかりでしたが、いざ胸をとってしまったら『もう仕方がない!』と思えるようになって、胸のない自分にも慣れていきました。身体的には、傷の痛みや周辺の痺れがなかなか引かず、退院してからのほうが苦しかったです」
主宰するフラメンコ教室を休業したのは手術前後の2週間だけ。毎年開催している生徒のライブも開いた。
「多少傷に響くものの意外と普通に踊れるんですよ。なにより踊りは私にとってなくてはならないもの。やめるという選択肢はありませんでした。フラメンコって生きる喜びや人生の苦しみ、悲しみを表現する手段なんです。言葉では表せないこともフラメンコなら表現できる。そういう意味で、踊ることが心の救いになっていたと思います」
手術中に腋のリンパ節に転移が見つかり、診断はステージ2に。はじめは抗がん剤治療はやらない予定だったが、半年間の抗がん剤とその後の放射線治療、ホルモン療法を提案される。
「自分でいろいろ調べて、抗がん剤は3か月の治療を選択しました。吐き気やめまい、脱毛などの副作用に悩まされました。8月の猛暑真っただ中だったので、ウィッグはかぶらずターバンを巻いていましたが、脱毛は胸がないことよりもつらく、鬱っぽくなった時期もありましたね……」