自分が苦しみ続けてきたことが仕事に結びつかない
大学卒業後は就職しようと大手企業にエントリーしたが、
「ぜんぜんやる気が起きなくて。商社とかメディアに就職したとしても、自分が苦しみ続けてきたことが仕事に結びつかない。本当にこうした道に進んでいいものか、と」
前出・管野先生にも相談した。
「民間企業の内定をもらったと言っていましたよ。でも藤井くん、一直線な性格だから僕はうまくいくかなあ、と。それで飲み会のときだったかに『教員にはいろんな人がいるから、教員だったら務まるかもしれないよ』。そう言った記憶がありますね(笑)」(管野先生)
藤井さんは就職せず、東京大学大学院教育学研究科に進学する。東大では教育社会学で学んだ問題を現実の制度に落とし込むべく、教育行政学を専攻。教育と社会の関わりを、さらに深く追究することを選んだのだった。
「ここならば自分の経験が生かせる」
自ら選んだ東京大学大学院は、早稲田以上にキラキラしていた。大学教授の子息もいれば、オーケストラで演奏した学生もいる。軽井沢に別荘を持つ同期もいた。
「想像はしていたけれど、自分が生まれ育った環境にはいなかった人たちばかり。もう完全に開き直りました。同期には不登校を経験して定時制を卒業した人なんて誰もいない。教育を研究する場にいるのなら、僕の経験はむしろ貴重。無双できるはずだって(笑)」
自分の経験は絶好の具体例で、共有して共に考えていくべきだと悟ったのだ。
藤井さんは、自分の過去や経験を積極的に語り始めた。そんな貴重な生の声に、同期たちもまた真剣に耳を傾けてくれたという。「だから大学院時代は本当に楽しかった」
大学院の先輩の宮口誠矢さん(30)が、この時代のエピソードを明かす。
「クリスマス、ラウンジで修士論文のアドバイスをしていたら急に、“宮口さん、ちょっといいですか”と言っていきなりラウンジのピアノで『戦場のメリークリスマス』を弾き始めたことがありました。あるいは近所に住んでいる先輩をつかまえてさんざんアドバイスを受け、最後に“お礼にファミチキおごります”と言って先輩をムッとさせたり。“変わり者だけど憎めない人たらし”が藤井くんだと思います」
そんな藤井さんは、東大から官僚という、王道コースは考えていなかった。
東大の教育学研究科とは、教育行政と学校現場の橋渡しとなることを目的に設立された学科だと藤井さん。ところが教育行政の対岸たる学校現場を知る人が、大学院にはほとんどいなかったのだ。
「夜間定時制高校の教員なんて、(大学院では)おそらく自分が初めて。だったらその隙間を埋められるのは自分しかいない」
大学院で教員資格を取得した藤井さんは、埼玉県の教員採用試験を受験して合格。配属にあたっては、全日制と併設されている夜間定時制高校を希望した。
とはいえ、天下の東大生からの進路先としては、戸惑いもあったのが事実のようだ。前出・宮口さんが、
「彼には“正統性”への強い憧れやこだわりがあります。社会のメインストリームに行くとか、影響力のあるポジションに行くということに強いこだわりがあるんです。
東大の院を卒業するとき彼が僕に言ったのは、“宮口さん、東大生という肩書を捨てるのはつらいです。何かを語るとき、一教員という肩書になっちゃいますから”と。半分冗談、半分本気といった感じでしたけれども(笑)」
2019年26歳の年、藤井さんは、埼玉県立大宮商業高等学校定時制課程に着任。すでに格差の拡大や不登校など、さまざまな問題が山積している教育現場に、夜間定時制高校出身で東大大学院卒という、異色の先生が誕生した。