お菓子の世界の可能性を広げて人生を豊かにする

 前出の小菅さんは、「今田先生はアイデアマンであり実業家でもある。お菓子の可能性を広げた方」と付言する。

 '82年に、日本橋三越で行われた展覧会『貴婦人が愛したお菓子展』は、その最たる例だろう。王妃たちが愛した40~50点のお菓子を並べ、彼女たちの生涯を添えた同展は、新聞で特集が組まれるなど社会現象になるほどの盛況を博した。

「展覧会の提案を岡田茂社長(当時)にすると、『あなたは10万年に一人しかいないアイデアマンだ』と言われました(笑)。きっと、みなさんにもそうおっしゃっていたんだと思うのですが、パッと扉を開けてくれるような人に出会えるか否かは、人生においてとても大事なこと。そうした空気ってあるんですね。不思議な感覚なのですが、その不思議な世界を楽しまないといけませんね」

 人が人を呼び、これまで全国の美術館やホテル、有名百貨店で行った展覧会は90を数え、延べ1000万人以上が訪れた。「作る」「食べる」という実用的なイメージしか持たなかったお菓子の世界は、「憧れ」や「夢」をまとうものへと広がった。

 かつて、普通の主婦だった今田さんの活躍は、お菓子の世界にとどまらず、女性の生き方にまで影響を及ぼし、彼女たちは今田さんが教えるお菓子教室に殺到した。

 その象徴が、現在の「今田美奈子食卓芸術サロン」の母体ともいえる、原宿の「薔薇の館」だった。この場所に通い、自身の結婚式のウエディングケーキを作ったのが、俳優の三田寛子さんだ。

「最初の出会いは、女性誌の企画でバレンタインのチョコレートの作り方を今田先生から習うというものでした。私は、お菓子作りが趣味だったので、そのときに『いつか自分の結婚式のウエディングケーキを作りたいんです』とお話しすると、先生は『あなたならできるわよ。大丈夫。その夢を実現しなさい』って。当時、私はアイドルでしたから、そんな夢を人に伝えるとみんなから笑われました。でも、先生だけは『私がお手伝いするわ』って背中を押してくれたんです」(三田さん)

 それから7年ほどがたった24歳のとき、三田さんは中村芝翫(当時・橋之助)さんと婚約する。

「結婚式まで1年あるので、夢を叶えたいと思いました。ですが、先生とは久しく会っていない。自分で作りたいと中村の母に伝えると、私も驚いたのですが……、今田先生は女学校時代の2つ上の先輩にあたると。『素敵な先輩だから連れて行ってあげるわ』って、再びめぐり合わせてくれたんです。先生もとても喜んでくださって、『責任を持って教える』と言ってくださいました」(三田さん)

 仕事の合間をぬって、「薔薇の館」へ通った。徐々に完成できるようにと、長期保存が可能なイギリス発祥のシュガークラフトのウエディングケーキを、指導を受けながら作った。砂糖で作ったペーストや砂糖細工でコーティングしたケーキは、湿気を防いで保存すれば長くもつといわれる。

「ウエディング・シュガー・ケーキの上段は、これから生まれてくる子どもの記念日など、特別な日に食べるんですね。伝統の世界である歌舞伎役者の妻となる私と、イギリスの伝統あるケーキは、『ぴったりだと思う』と先生からおうかがいし、子どもができるまで、ずっと大切に保管していました。長男の橋之助が生まれ、お食い初めのときに口にしたことは、忘れられません」(三田さん)

 夢を叶えてもらった存在─、そう三田さんは話す。

「人生ってお菓子作りと似ていて、うまくいかないときもある。それでも、やっぱり甘い香りが漂うと幸せを感じてしまう。先生は、お菓子を通じて人生を教えてくれる。17歳から57歳の今にいたるまで40年間、ずっと憧れの存在。憧れなんて口にしていいのかわからないですけど、私にとって恩師です」(三田さん)