そこは埼玉県西川口のピンサロだった。期せずして風俗の世界に飛び込むことになった紅子さんだが、両親からの援助がまったくなかったわけではない。しかし、小さな菓子店を営む実家は明らかに経済状況が悪く、自分で何とかしたい、家計を助けたいという思いもあった。
28歳で“日本3大ソープ”の有名店へ転職
「初めての風俗店には1週間もいられませんでした。男の人の扱いはわからないし、明らかに下手で、店長からもお客さんからもダメなやつと思われて。子どものころから裸になれば人に受け入れてもらえると思っていたので、挫折を味わいました。とはいえお金がないので、その後もピンサロやヘルスを転々として」
時はギャル文化全盛の'90年代前半。紅子さんは渋谷のピンサロで働いていた。周りの嬢はガングロギャルばかりで話が合わず、そこでも完全に浮いていた。
ある日、説教好きの客から、「吉原に行ったら人生終わる。あんな本番あるところ」と聞かされた。人生が嫌になっていた紅子さんは、そんな場所があるなら行ってみたいと考えた。
「風俗向けの求人情報誌で“素人募集! みんな集まれ!”みたいな広告を見つけて、翌週には面接を受けに行きました。安いお店でしたが、講習で椅子洗いやマット、添い寝の仕方まで丁寧に教えてもらって、『なんてありがたいんだろう!』と思って。終わったらボーイさんや店長が、『講習修了おめでとう~』なんて拍手してくれる。まぁノセられたわけですが、これまでの人生でこんなに温かく迎えられたことはないと思いました」
22歳で吉原のソープ嬢として働き始めた紅子さんは、専門学校に通いながら、天ぷらを揚げるバイトも掛け持ちしていた。しかし、ソープの仕事は全身を使うため、日に日に疲労がたまっていく。特に疲れたのがマットを使ったプレイだ。
ここが自分の居場所だと思って働いてはいたものの、一歩外に出ると、自分の仕事を人に言うことさえできない。谷間の奥底から眺めるように世間を見ては、「なぜ自分はそこに行けないんだろう」と自問するも、這い上がり方がわからなかった。肉体の疲れは精神的なダメージにもつながった。
3年ほど勤めて、マットがないヘルスに転向し、「週に1度ぐらいなら」と川崎の堀之内にある安いソープで2年働いた。夜になるとピンクのネオンが灯り、外に立つ嬢が浮かび上がる。その光景を、紅子さんは今も覚えている。
「ところが28歳のとき、極めたいとかではないんですけど、ちゃんとソープの仕事をしたいという気持ちが芽生えてきたんです。高級店で働いている知人に、『吉原でちゃんと働きたいんですけど、どこのお店がいいですか?』と尋ねたら、日本3大ソープのひとつといわれていた『ピカソ』の名前が返ってきて。そこは1度のプレイに8万円かかる高級店なのですが、面接を受けたら、私みたいな普通っぽい人を求めていたようで、採用されたんです」
32歳まで『ピカソ』で働き、結婚を機に店を辞めた。しかし、子どもが1歳になるころ、夫から「他に結婚したい人ができた」と告げられ、離婚。ひとりで1歳の男の子を育てることになった紅子さんは、ある壁に直面した。
「それまで風俗の仕事しかしたことがなかったので、どうやって生きていこうって感じで。漢字もあまり書けなくて、朝5時に起きて字の練習をしたり、パソコンもブラインドタッチから始めました。ようやく事務の仕事にありつき、40代後半になったとき、ふと『このままで人生終わるのかな。何か自分が生きてきた証しを残したい』という気持ちが湧いてきたんです」