アメリカに憧れ、伝説の店を目指して
1951年生まれの原口さんは“アメリカへの憧れが強かった世代”だと語る。
「だから店名はアメリカン。何も考えてないんだよ。取材では必ずその話をするんだ。俺らの世代はさ、車、オートバイ、ファッション、音楽、全部がアメリカかぶれだった。俺はいまだにジーンズしか持ってないぐらいだよ」
開店当時は店の内装も、すべてアメリカンな感じにしていた、と振り返る。今は緑色のテントが目印だが、開店当時は白地に赤とブルー。店内には星条旗も飾られていた。
「サンドイッチの名前も、全部アメリカかぶれでさ。ハワイサンド、アイダホサンド、ケンタッキーサンドとかね。ちなみに中の具は、ケンタッキーサンドはチキンで、アイダホサンドはポテト。そんな感じだったな」
当時はケーキも出していて、近所の女性会社員にも評判だった。時はまさにバブル。しかし、開店当初は順調だった店の営業も、バブル崩壊と共に危機に瀕するはめに。
「暇すぎてふてくされちゃってさ、パチンコ屋に入りびたったこともあるよ」
営業の危機を乗り越えるべく、父親が県庁を退職するタイミングで、原口さんはまた借金を申し込んだ。
「1000万、借りたな」
2000万円借りた母親にも、結局は返しきれなかったと原口さんは話す。
「でも俺がテレビに出たりするようになって、老人会とか近所の人に“息子さん、テレビに出とんしゃったね”って言われるたびにニコニコして喜んでくれてたらしいんだよね。それが唯一の親孝行だったかなあって思うよ」
2019年1月、その母・ミヨさんが逝去。喫茶アメリカンは開業以来、異例の1週間の休業をした。そして昨年、1000万円を都合してくれた父親も亡くなった。
「昔、親父が東京に来たときな。うちの親父は飛行機が怖いから、新幹線で来たわけよ。で、せっかちだからさ。名古屋を出たあたりで、車内放送が“次は東京、東京、終点の東京”なんて言うもんだから、すぐ荷物まとめてドアのとこに行ったらしいんだよ。そこから2時間、デッキでずーっと立ちっぱなしだったって」