「絶対に受け取らん。海は私らのものじゃない」

「誰の海でなし。みんなの海じゃから、守らんと」と、一本釣り漁の岡本正昭さん(67)。「絶対に受け取らん。海は私らのものじゃない」。女漁師・竹林民子さん(73)も決意をにじませる。公務員を定年退職し、島内のさまざまな役を担う藤本芳子さん(76)は「漁師だけの問題じゃない」と話す。奔走が始まった。

 牽制するように、外部から懐柔や脅しが続いた。もっとも女性の多くは動じない。'10年1月から'11年3月半ばまで田ノ浦へ毎日交代で通い「中電に言われ慣れちょる」のだ。

 県漁協は、配分案の採決のため会合を4回招集したが、いずれも延期した。4回目の'14年3月は祝島総出で船着場に人があふれ、県漁協は船着場の階段を数段上っただけで帰った。

 5回目の招集は'15年4月。初めて島外の会場となった。漁業補償金を拒む祝島の漁師は、定款規約にのっとり書面で議決権を行使することにした。荒天で船が出ない場合の備えだろうか。原発事故の避難計画など、祝島には空論とわかる。

 だが県漁協は書面を受理しない。「定款を守れ」と声が飛ぶ。祝島の漁師は粘った。最終的に書面は受理され、配分案は否決された。漁業補償金の強要を2年がかりで押し返したのだ。

サーフボードで漕ぎ出して埋め立て工事の湾封鎖に抗う祝島住民の橋本さん
サーフボードで漕ぎ出して埋め立て工事の湾封鎖に抗う祝島住民の橋本さん
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脅しと暴行に抵抗「引いたら負け。絶対に引かん」

 埋立免許をめぐり、山口県もブレだした。県は'08年、上関原発のための埋立免許を中電に交付。だが'09年9月の着工の際、祝島を中心に各地から人が集まり、現場で抗議の声をあげた。

「上関の計画は僕が生まれる前からあり、僕の意見を聴いてもらう機会もなく工事強行となった。最後の表現行動の場として、埋め立て現場の田ノ浦があった」と広島県で農業をする岡田和樹さん(30)は語る。

 中電は強硬だった。クレーンで宙づりにされた人もいる。岡田さんは暴行され、救急搬送され入院した。岡田さんを含む4人の住民は裁判で訴えられもした。住民の抗議を「妨害」と呼び、損害を受けたので賠償金約4800万円を支払えと、中電は主張したのだ(後に約3900万円へ減額)。典型的なスラップ──国や大企業が、反対する市民を裁判で訴え、脅しで口を封じる恫喝訴訟だ。嫌なことを嫌と言う自由を損ない、憲法が保障する表現の自由を掘り崩す。

 ただ、中電の意図に反し、4人に恫喝は効かなかった。祝島の女性たちも怯むどころか、田ノ浦へ連日通いだした。'11年2月、埋め立て工事を一気に進めようと大量の台船や作業船、警備員や作業員を中電が田ノ浦へ派遣した際も、美容師の橋本典子さん(57)はダイバースーツを着込み、サーフボードで海へ漕ぎ出した。中電が小船でオイルフェンスを引っぱり、田ノ浦の湾を封じようとしたからだ。「引いたら負け。絶対に引かん」と2月の海で半日以上、典子さんは湾封鎖に抗った。

 繁忙期だった民子さんは、「夜は磯へ行ってひじき狩り、朝戻ると田ノ浦へ行って浜でゴロンと横になった」と笑う。いのちの海が育むひじきを薪で釜炊きし、風と天日で干す。祝島の海山の恵みの結晶だ。それを受け継ごうと、文字どおり不断の努力だった。