非常時ならではの、ミステリアスな出会いもあった。
友人の父親が海外で真っ白なオーバーコートを入手した。おしゃれがしたい盛りの10代がそろって高揚したのも無理はない。オーバーを見せびらかそうと銀座の大通りに繰り出した彼女たちに、大学生らしい青年が声をかけた。
「真っ白なオーバーなんて、当時の東京には売っていませんよ。あかぬけていて物がよくて。わたくしたちがそんな物を着ているものだから、向こうも英語で話しかけてきた。チャイニーズでした」
ほどなく彼から、流ちょうな日本語でしたためられた手紙が届くようになった。帝国ホテルのラウンジや、横浜の中華街でデートを重ねるが、
「絶対に家には近づかないの。送ってきても、家のある辻まで来るとピタッと立ち止まってわたくしが門に入るのを見守っている。なぜかといろいろ考えて、“スパイなんじゃないか”と……」
彼から“一緒に(中国に)来てほしい”とプロポーズされ“、あの方と結婚してもいいですか?”と母親に尋ねると、
「即座に“いけません!”」
兼高さんのミステリアスな恋はそこで終わるが、この話には後日談がある。
『世界の旅』の仕事で台湾を訪れたときのことである。
兼高さんの台湾訪問が現地の新聞に取り上げられ、タラップを下りる姿が掲載された。
すると記事の切り抜きとともに彼自身の写真を添えて、“これは兼高さんではありませんか?”という手紙が送られてきたというのだ。
「それを見ると、どうも好みのタイプじゃないの(笑)。彼からの封筒のアドレスは日本語でいう“気付”になっていて、台湾に行ったときに探したんですけれど、“この住所にこういう人はいません”。
中国語の“気付”という言葉がわかっていたら、聞きようがありましたけれど。でも、これは神様の命令ですよ。“これはここでストップ!”というね(笑)」
そこまで語ると兼高さんは、私たちのさらなる追求を煙に巻くべく、あの大きな瞳をくりくりっとさせて、にっこりと微笑む。
考えてもいなかったロサンゼルス市大へ留学
昭和20年(1945年)、そんなミステリアスなロマンスをもたらした戦争も終結。兼高さんは、医大への進学を希望した。
「兄が病身だったので、入れ替わり立ち替わり、いろいろな先生にお願いしていたんです。うちにいらっしゃるお医者様には楽しい方が多くてね。それで“医者っていいなあ”と思ったんです」
ところが受験は失敗。理由は意外なところにあった。
「通っていた女学校のお隣に医大がありまして、朝、時間ギリギリで走っていくと、窓から医大生が、“走れ!”と応援してくれるんです。
それでわたくしも、見上げて笑ったりしておりましたら、女学校のシスターたちはそれは問題だと。“知らない男の人に愛嬌を振りまくのは、風紀を乱す”というんです」
厳格なシスターたちには、10代の女の子が醸し出す一陣の春風も、不良の行いにしか見えない。校内でのラクビーのまね事やら、こうしたことが重なって、内申書の評価点が極めてシブかったのだ。
兼高さんは一転、当時はエアガールと呼ばれていた花形職業スチュワーデスを目指す。
「当時はプロペラ機でしょう。だから(志望者は)目方でいうと体重12貫(45キロ)、背が150センチまでとか、決まっていたんです。
わたくしは背が高かったものですから、目方も重い。目方か背の高さかのどちらかでダメだったんです」
最終的に目指したのは、ホテル経営。夏休みには家族とともに鎌倉のリゾートホテルで過ごすのが常で、ホテルは身近なものだった。
ホテル経営といえば、スイスが本場である。かの国で学ぶべく、まずはフランス語を身につけようと家庭教師についてみたが、どうも発音がマスターできない。イギリス留学も考えたが、戦勝国とはいえ、厳しい配給生活が続いている。
消去法で、世界有数のホテル学科を有するアメリカはニューヨーク州の名門、コーネル大学のホテル学科に願書を出すが、同大から返ってきたのは、“当校にはホテル業に関係のある者しか入学できません”とのつれない返事。
「それで仕方なく、一番考えていなかったアメリカのロサンゼルス市大へ進むんです」