垣間見たアメリカの豊かさ、懐の深さ
「進駐軍の日本占領が終了したのが昭和27年(1952年)。わたくしはその2年後の昭和29年(1954年)、26歳のときにハワイ経由でアメリカに留学しました」
戦争直後の、国民の大部分が食うや食わずだったあの時代、留学には結核にかかっていないことを証明するレントゲン写真が必要で、さらには学費一切の面倒を見るスポンサーが欠かせなかった。
当時のアメリカのおおらかさをしのばせる話がある。
期待と不安で胸を高鳴らせた兼高さんが経由地のハワイはホノルル空港に着き、入国検査でレントゲン写真を提出して待っていた。同乗の人たちは1人、2人と消えていき、とうとう彼女だけが残された。
「わたくし結核の経験者でしたから、入国できないのかしらととても不安で。それでしばらく1人で立っていたら、空港係員がやって来て、“何をしているんだ。友達が待っているから早く荷物を持って出ていけ!(笑)”。無事、アメリカに入国することができたんです」
査証を持った者すら追い返す、トランプ政権下のアメリカとはなんと異なることか。
生まれて初めてのハワイは驚きの連続だったという。
「豊かだなあと思いましたね。食事に行きましょうと連れていってもらったら、テーブルの上に生のパイナップルが切ってあって、無料だっていうんです。“ホントですか!?”と全部食べちゃった(笑)」
パイナップルなど、見たこともない日本人がほとんどという時代だった。
ハワイ経由で到着したロサンゼルスでは、ロサンゼルス市立大学に入学、ビジネスを学ぶことに。大学の斡旋で牧師の家に下宿、ひたすら勉強の毎日を送った。戦争が終わって10年もたっていなかったが、旧敵国からの留学生に、アメリカの人々は親切なことこのうえなかったと語る。
ロスでは周りの人々の教養の高さにも圧倒された。この2月に出版された、作家の曽野綾子氏との対談集『わたくしたちの旅のかたち』(秀和システム刊)から引用しよう。
《留学してまだ日も浅い頃、カリフォルニア大学の教授がランチに招いてくださいました。(中略)お宅にお邪魔して驚いたのは、お客さまがそれぞれこともなげに楽器を弾いて、室内楽のアンサンブルが始まったことでした。
それからお食事になりましたが、今度は天文学の話題です。(中略)わたくしは一言も口をはさめず、内心、かなり焦りました》
戦争による立ち後れを痛感させられた兼高さんはせき立てられるように勉強に打ち込んでいく。言葉の問題などもあり、当時は4年間で卒業できる者などほとんどいない。兼高さんはなんとしても4年で卒業すべく、夜間の講座も取り、夏休み中も通学した。
そんな猛勉強の結果、優等生として学費は免除、名前が町の新聞に載ることに。
「それでその新聞を、日本に帰る人に持って帰ってもらったんですよ、母に見せるようにと。すると母は、それを包み紙だと思って捨ててしまった! もう、もったいないことをしました(笑)」