夫婦で喜んだが、この臨床試験に入る条件は“抗がん剤未投与”。すでに抗がん剤治療をスタートさせていた哲也さんは“適応外”だったのだ……。
「なんでこんなふうに、情報にたどりつける人と、たどりつけない人の差が出てくるのだろうって、すごく悔しかったんです」
浩美さんはそう振り返る。
アナウンサーの逸見政孝さんがスキルス胃がんで亡くなってから、20年近くたっていた。なのに、あのときから医療はそれほど進歩していなかったと、轟さん夫婦は実感した。
「ありがとう」の言葉を残して…
告知を受けてから半年後には、夫婦ともに仕事を辞めていた。“あの人、がんじゃないの?”と言われるのがイヤだったから。
「夫婦そろってひきこもりです。私は、いわゆる民間療法の“にんじんジュース”を作り続けました。夫は食べられない状態で、そんなことをやってもムダだとわかっているのに、無理して飲んでくれた。そのうち、冷蔵庫ににんじんがなくなると、不安にかられるほどになっていました」
しばらく我慢していた哲也さんだが、ある日、突然「誰のためにやっているの?」と怒りだした。
「もうすぐ死ぬかも……と思ったら、相手を思いやるがゆえ、本音が話せなくなります。こうした夫婦間のずれは、よくあること。あのとき、誰かほかに相談する人がいたら違っていたでしょうね」
もっと前向きになろうと思った哲也さんは、ブログを発信し、患者会も立ち上げた。同窓会でも、自分ががんであることをカミングアウトした。
すると、友人たちは患者会『希望の会』をNPO法人化するために尽力してくれた。講演会に呼ばれるようになり、車イスに乗りながら、熱意を込めて体験を語った。
夫の容体がどんどん悪くなってくると、浩美さんもその活動を手伝わざるをえなくなった。
夫を襲ったスキルス胃がんの存在や患者が直面する現実を知ってもらうために冊子を作り、助かる命を救うため、ロビー活動も始めていた。
'16 年8月。哲也さんは家族に「ありがとう」の言葉を遺し、旅立った。
そして、あたかも哲也さんが追い風を起こしたかのように、『がん対策推進基本計画』の改正で、スキルス胃がんが「難治性がん」として明記されたのだ。
「スキルス胃がんは、AYA世代(15〜30歳前後)にも多いがんですが、情報も少なく社会的支援がすごく遅れています。また、難治性だからこそ、家族や遺族が抱える心の問題も大きい。これからも声をあげ続けることで、このがんを理解してもらいたいです」
轟浩美さん ◎希望の会代表 スキルス胃がんの患者であった夫・哲也さんと'15年にNPO法人『希望の会』を立ち上げる。夫亡き後は理事長を引き継ぎ、スキルス胃がんに関する知識や情報を伝え患者と家族を支える活動を行っている。