無収入のピンチを救った“男の約束”
2010年4月、営業を開始した。経費を抑えるため自宅の一室を事務所にした。表通りから少し入った住宅街にあるごく普通の一戸建てで目立たない。2階の壁に「和田京子不動産株式会社」と書いた大きな看板をつけた。
畳敷きの8畳間にローテーブルと大きなクッションを並べ、くつろげる雰囲気に。ホームページを見たお客が来店するようになった。
だが購入を希望する物件に案内しても、成約には至らない。京子さんが途中でしり込みしてしまうからだ。せっかく来たお客をほかの会社に紹介することすらあった。
「売り主の不動産屋を信じ切れなかったからです。取引をするには相手を見抜く心眼が必要ですが、私にはまだ経験が足りなくて、自信がなかったんです」
2年間、無収入の状態が続き、娘の洋子さんは気が気でなかったという。
「毎日、毎日、母と顔を合わせれば、“もう会社をやめて”と言い続けて、ケンカばかりしていました。ただ、息子はずっと母のことを信じていましたね」
孫の昌俊さんはITベンチャー企業で経営コンサルタントの仕事をしていたが、祖母の会社を手伝おうと退職して宅建の資格を取得。経験を積むためほかの不動産会社で修業をしていた。
自分の給料37万円のうち、毎月7万円で生活。残りをすべて運転資金として祖母に渡した。
パソコンの使い方を教えたのも昌俊さんだ。京子さんはなかなか覚えられず同じことを何十回でも聞く。昌俊さんはパソコンを立ち上げてメールソフトを開くまでのマニュアルを作って渡した。それでも京子さんがメールでやりとりできるようになるまで2年かかった。
どうしてそこまでして、祖母を助けたのか。不思議に思って聞くと、昌俊さんは祖父との最後の思い出を話してくれた。
「キッチンで倒れて、手術室に運ばれていくとき僕がずっとそばにいたんです。“おばあちゃんを頼むよ”というのが最後の言葉でした。もともと宅建を取ることをすすめたのは僕ですし、途中で手を引くのは無責任じゃないかなと。でも、いつまで続くのかもわからないし、正直、不安はありましたよ。僕もまだ22、23歳で若かったからできたけど、もうあの生活に戻るのは無理です(笑)」
会社設立3年目に入り、ようやく初めての契約が取れた。京子さんはそのときの喜びをこう表現する。
「ヤッター! 稼いだ! 自立した! 自分でお金を稼いだのは生まれて初めてですから。この年で自立できた喜びは、何ものにもかえがたいですね。それまではずっと養われてばかり。特に胸を悪くしてからは、もう誰も雇ってくれないとコンプレックスがありましたからねえ」
若い夫婦を希望する物件に案内したのだが、売り主が購入を急(せ)かすうえに説明が不十分など信用できない。京子さんは「ここはやめたほうがいい」と伝えて、別な物件に案内した。その対応で、京子さんは信頼できると感じたとその夫婦に言われ、自分のやり方が間違っていなかったと自信がついた。