自分の置かれている環境とあまりに違う立場、例えばまったく環境の違う外国人と自らの置かれている環境を比べて「自分はあの人より幸福か」と考える人は少ないだろう。
しかし、「会社の同期の中でも最初に営業に配属された人は皆出世してるのに……」とか「将来、あのグループにいれてもらいたいから振る舞いをまねしてみよう」とか、過去に所属していた集団や将来所属することになるかもしれない集団は、現在の自分の所属がなくても “準拠”させることがある。
高度経済成長期で農家の次男、三男がサラリーマンとなり、大半の家庭で妻が専業主婦になっていった時代、多くの女性にとって、専業主婦は「選ぶ」ものというよりは、多くの人にとっての「自然な流れ」だったに違いない。まれにパイオニアの職業婦人がいても、その数少ない層はあまり「私だってああいうふうになれたかもしれない」という“準拠集団”にはなりにくかったのではないか。
ところが、今は、専業主婦、共働き家庭にとって、お互いは今、「もしかしたら自分だって選べたかもしれなかった選択肢」なのかもしれない。だから、比べてしまう。そして相対的な不満、“相対的剥奪感”を感じてしまう。どちらも、選んだことに自信がなく、どこかで後ろめたさを覚える――。
そんな中で自己評価の“相対的”な価値を上げて自己納得をしようとしたときに、自分の選んだ選択肢のメリットではなく、選ば(べ)なかった選択肢のデメリットを上げてしまうことがないだろうか。
例えば「私がこういう子育てをしたから、子どもはすくすくと成長している」と認めてほしいときに、「働いているお母さんの子は、可哀想」「専業主婦家庭で育つと、親離れが大変」などと言い換えてみるとどうか。こういうことをしてしまうと、対立は深まっていくことになる。
主婦論争の大きな対立軸として、経済的価値と、そうでない価値の軸があると述べた。後者の数値化・可視化できない価値を人にわかってもらったり、自己評価したりするのは、前者よりも難しい。家事や育児は成果が見えづらく、原因と結果の因果関係が明確でない。こうして対立構造はうまれ、アンビバレントな感情を抱いている“準拠集団”の側に自分自身が飛び移りにくくもなっていく。
どちらかを選ばざるをえない社会が対立をあおる
この連載では、専業主婦を前提とした日本社会のOSを見直していく必要があることをたびたび訴えてきた。子育てなどのシステムが片方の親が専業主婦(夫)として家事育児に専念しなくても成り立つように設計されていて、望まない場合に「専業主婦(夫)を選ばざるをえない」状況をできるだけ減らすこと。
そして、経済的価値がすべてではないが、そうではないほうのプライスレスな経験、例えば子どもと向き合う十分な時間が、経済的自立の犠牲と引き換えでなくても得られること。つまり、両親ともに長時間労働をしなくても普通に働き、普通に子育てもできること。
専業主婦も、共働きも、「もしかしたら自分だって選べたかもしれなかった選択肢」であったと同時に、「いつ自分がそちら側に行くかわからない選択肢」でもあるはずだ。それが誰にでもいつでも選べるものなのであれば、選べなかったことを後悔したり、選ばなかった選択肢の価値を引き下げたりする必要もない。
専業主婦の期間を経て再就職する人や、フリーランスのような柔軟な働き方をする人が増えている。真の意味で多様な選択が可能な社会になったとき、専業主婦とワーキングマザーといった対立軸や主婦論争は、ようやく終わりを告げることになるのではないだろうか。
中野 円佳(なかの まどか)◎ジャーナリスト 1984年生まれ。東京大学教育学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。大企業の財務や経営、厚生労働政策を取材。立命館大学大学院先端総合学術研究科で修士号取得、2015年4月よりフリージャーナリスト、東京大学大学院教育学研究科博士課程。厚生労働省「働き方の未来2035懇談会」、経済産業省「競争戦略としてのダイバーシティ経営(ダイバーシティ2.0)の在り方に関する検討会」「雇用関係によらない働き方に関する研究会」委員。2017年4月より、シンガポール在住。カエルチカラ言語化塾、海外×キャリア×ママサロン等のオンラインサロンを運営。2児の母。著書に『「育休世代」のジレンマ』(光文社新書)、『上司の「いじり」が許せない』(講談社現代新書)。