無知の無敵
所沢の家を売り、土地勘のない原生林へ。もともと虫も苦手だったというキミさんに抵抗はなかったのだろうか?
「何となく、所沢に住み続けはしないんだろうなと思いながら生活していたから、抵抗はなかったかな。大切な山胡桃やブルーベリーの木は地植えにせず、鉢植えにしていたぐらいですから。虫は慣れですね(笑)」
今では、(グローブ着用であれば)アオダイショウもつかめるほど逞しくなったキミさんだが、守村さんが「自力で丸太小屋を建てる」と言いだしたときは、さすがに無理だと思ったという。
「みんなそう思うんだよ。でも、無知の無敵ってあると思う。普通は家を造ろうと思っても、常識が邪魔して、やらないじゃない。でも、バカは“できんじゃねーの?”と思って突っ込んでいってしまう」
そう言って、外にあるテーブルを指さす守村さん。
「家は無理でもあれぐらいなら作れそうじゃない? で、あのテーブルさえ作れたら、誰でも家が造れるんです」
守村さんの生まれは、『少年サンデー』や『少年マガジン』が創刊された昭和33年。幼少期に両親が離婚し、秋田県に住む父方の兄夫婦に預けられた。
「谷川以外は何もないような田舎でね。少年時代は手づかみで魚をとる自然児だったよ。遠慮もあったのか、怒られたことはあっても“ああせい、こうせい”と言われたことはほとんどない。それで、自立心が育ったのかもしれないね」
勉強でも、スポーツでも、常に3番ぐらいをキープする小器用な子どもだった。絵を描くのも好きで、「そこそこ上手だったよ」と守村さん。しかし、幼少期から漫画家になろうと思っていたわけではない。
「高校卒業後、とにかくお金がなくてね。で、『少年マガジン』とか読むと、○○先生に手紙を出そう! とか載ってるわけさ。ちょっと、お金の匂いを感じてよ(笑)。特に漫画が好きだったわけでなく、俺にも描けんじゃねーの? って」
それまで1度も漫画を描いたことがなかった青年は、画用紙に万年筆で描いた処女作を手に、意気揚々と出版社に持ち込む。しかし……。
「ボロクソに言われたよ。こっちは傑作が描けたと思い込んでるから、おかしくね? と思ってね」
19歳のとき、漫画家で、アニメーターでもあった村野守美さんの絵を好きでまねしていたという守村さん。幸か不幸か、持ち込んだ先の担当編集者は村野さんの担当だった。
「で、村野先生が原稿を落としただかなんだかで、似た絵を描く俺みたいなやつがやってきたから、“描いてみるか? 1週間しかないけど”。そのとき、描いた2作目が(雑誌に)載っちゃった。それが、悲劇の始まり」