1週間にわたる採用試験は、実習という形で行われたが、初日に思い知らされた。
「包帯交換に同行したら、利用者さんの背中から、それこそ国旗を口から出す手品みたいに次々と包帯が出てきた。褥瘡っていうんですけど、皮膚が腐って、こぶしが入るほどの穴が背中にあいてたんです。それを見て、この仕事は“わからない”“できない”が言えないと人を殺してしまうと肝に銘じました」
介護の仕事はきれいごとではすまされない。おもらしの片づけや、おむつ交換も日常だ。それでも、嫌だと思ったことは1度もない。
「認知症の人に出会って、人間って面白いなと単純に思えた。僕にとって天職なんだなぁって」
ともすれば、“奇行”に映る、認知症の人の行動も、和田さんは別のとらえ方をする。
「認知症じゃない僕らは忘れたくても忘れられずにつらい思いをする。認知症の状態になると覚えていたくても覚えられなくなる。どっちが豊かかわからへんて」
認知症イコール、不幸とは決して思わなかった。
嫌なことを素直に嫌と言えたり、食べたいものを我慢せずに口に入れる言動は、逆に新鮮に映ったほどだ。
「中にはうんこを食べちゃう人もいて、人間てすごいなあ、人はここまで自由になれるんだって感動しました。自由に物事を考えたいのに、コントロールされてしまう自分を解放したかったんやろね」
多くの大人がそうであるように、和田さん自身も理性や常識に縛られて生きてきた。だからこそ、新鮮な好奇心をもって介護にあたれたという。
信じられない光景
ところが、1年後、研修で訪れた別の施設で、信じられない光景を目の当たりにした。
「施設は施錠で外部と遮断され、檻のついたベッドに入れられ、強制的に混浴させられている。髪型・服装はみんな同じ、隠されることもなくおむつ交換がされていた。当時、僕が働いていた施設は介護では最先端をいく施設だったようで、世間の実態を知らなかったんです」
行動の自由を奪われ、廃人のようになっている人たちを見て、怒りが込み上げた。
「社会福祉施設には差別や人権無視なんてないと思ってたんやけど、違った。僕が子どものころに習った憲法の基本的人権には“認知症の状態にある人は除く”とは書いてなかった。僕のしょうもない正義感が生きるかもしれん。なんとかしたい! と思いました」
「なんとかしたい」、を形にしたのは、44歳のとき。
1999年、東京都で初のグループホーム(認知症高齢者を対象に少人数で共同生活をする施設)、『こもれび』の施設長になってからだ。
介護の仕事に本腰を入れようと上京し、34歳で高齢者住宅サービスで6年間勤務。介護福祉士の資格を取得した。以降、介護現場のあり方に疑問を抱きながら、自分なりに追求を続けてきた。
「本来、僕らの仕事は、認知症になっても自立して、社会とつながりながら生活できるよう支援すること。だけど実際は、食事を作り、食べさせ、身の回りの世話をする。本人ができることまで手を出すから、結果的に、能力を奪う介護になっているんです」
和田さんが介護の仕事を始めたばかりのころ、夜勤で朝寝坊をしてしまったことがあった。殺気だって起床着替えや排泄支援をやっていると、利用者たちが黙って手伝い始めたのだという。
「やれるんや!」
和田さんは驚き、必要なのは、能力を引き出す介護だと実感した。
その後、賛同する仲間を増やしながら、働く場所が変わっても、介護のやり方を改善していった。