戦争体験とメイクとの出会い
遅れて東京を引き揚げてきた養父とともに、狩川町で終戦を迎える。狩川は雪国で、農業中心の町。最初は、言葉がわからず、暮らし方も全く違うことに戸惑ったそうだが、小林さんは持ち前の明るさと人なつっこさで、まもなくなじんでいった。一方、養父母との暮らしは次第に困窮。貨幣価値の変化で、養父が築いた財産は紙屑同然に。さらに養母がカリエスを発症し、長期療養を余儀なくされる。養父は養母の看病に専念し、生活の糧を得るのは小林さんの役割となった。
「山に行って食べ物をとってきたり、農家の手伝いに行って、お裾分けをもらったり。それは苦にならなかったですね。当時の小中学校では、農業の授業があって、農家の子は嫌がったんですが、私は植物の苗が成長して収穫できる様子がとてもクリエイティブに思えて、楽しかった。先生からも可愛がられて、農業で食べていこうかな、と思っていたくらいです」
自分が家族の生活を支えていることに対して、養父母への反発や反抗も特になかったという。
「養父は、学もあり商才もあった人でしたが、以前は頭脳労働で成功していたプライドからか、地元の人たちになじめなかったんです。それにカリエスは結核性のものなので、若い私にうつらないようにという配慮もあったと思います」
養父母とは、実の親子とは微妙に違う感覚もあった。
「私が乳飲み子のころを知らず、養女になったときは7歳で、結構、働き者だった(笑)から。例えば運動会で、紅白饅頭をもらって帰宅して、私が『お腹がいっぱい』と言うと、両親が『本当? いらないの?』なんて目を輝かせてお饅頭を食べたりね。普通なら子どもに食べさせたい、って思うでしょ? そんなふうで、養父母との関係は、子どもを守るというより、頼ったり頼られたりの同志みたいだったかもしれません」
それでも養父は尊敬しており、その言葉やふるまいには大きな影響を受けた。
「時代の先を読め、と教えてくれました。養父自身がそういう人で、家具問屋から防空資材の会社に転じて成功した。アイデア豊富で、焼夷弾を通さない厚手のフェルトの防空頭巾を発明して、新聞に載ったこともあります。戦争に負けることも、早くから予見していましたね。
特に忘れられないのは、店が空襲を受けたときのこと。一緒に見に行ったら、中の防空資材が略奪されていたんです。略奪を防げなかったことを謝る大家さんに『1人でも命を助けることができたのなら本望です』って言ったんです。本当にカッコいいなと思いました」
恵まれた暮らしとは言い難い小林さんの青春時代。その中で、メイクに興味を持つようになったきっかけは「演劇」だった。中学卒業後は、小学校の給仕として働きながら高校に通い、農家の手伝いもする、という忙しい生活。
少ない娯楽が、近所の若者が集まる集会場で、レコードを聴いたり、本を回し読みしたりすること。その仲間だった年長の文学青年が、さまざまな脚本を紹介してくれるようになったことから、演劇サークルを結成する。衣装や舞台装置を手作りする中で、小林さんはメイクに注目する。
「『夕鶴』の主人公のつうが、だんだんやせ細っていくのをどう表現したらいいかと思って。薬局で相談したら、青いアイシャドーがあるよって。それを塗ると、健康的な顔がすーっとやせたように見える。すごく面白いなと」
自分は裏方向きだ、と気づいたのもこのころだった。
「小中学校のときは、東京出身でセリフがなまらずにうまく言える、というので当たり前のように主役に選ばれていたけれど感動はなかった。自分が照明を当てたり、プロンプターで陰からセリフを補助したりするほうが喜びがありました。練習のときにはセリフが覚えられなくて心配していた人が、本番で堂々と演じているのを見ると、うれしくて涙が出るほどでしたから」